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考えるって、いったい何なんだっけ?

2021.02.05

こんにちは、萩ドットライフ()です。

考えるって、いったいどんなことをするんだっけ? みたいなことを思っています。僕ごときが、うんうん唸りながら頭を絞っても、これまで誰も思いつかなかったような革新的なアイデアが浮かぶわけでもなく、実際どういう行為を指してるんでしょうね。

毎朝の、考える習慣

自分から発した「毎朝、考える習慣を得ています」という言葉に絡め取られて「それっていったい、どういうことなんだっけ?」と状態に陥っています。

発端は、先月このブログの投稿記事数が1,000記事を超え「とりあえず1,000記事投稿してみた。さてどうしよ…」という記事を書いてみたことにあります。

1,000記事書いてみたとて、毎月数10万のアクセスを得られるわけでも、Googleアドセンスからの収益が数万円に達するわけでもありませんでした。
せいぜい得られたものが、こうして毎朝起き抜けに何かを考えながら、2,000〜3,000文字程度の文章をしたためる習慣だっので、そのことについて書いたのです。

その「毎朝考える習慣」の効能は、すぐには評価できません。

何年か、何十年か経った後に「あの習慣を得たことで、人生が変わったな」と思うのか? 「考える習慣なんて、別に朝じゃなくても、いつでも考えてるじゃん。どうでも良かったな」ってなるのか? 今はまだ、なんとも言えません。

それよりも、ブログに「考える習慣を得た」なんて書いちゃったもんだから、そちらのほうが気になってるのですよ。

ブログなんて書かなくても、職業人時代にもずっと「考える習慣」はあったはずなのです。
そりゃもう朝から晩まで、うんうん唸りながらクライアントや広告代理店に喜んでもらうため、また次の案件でも指名してもらうために、よきアウトプットをし続けることが宿命でしたからね。

そのころの「考える」と、なにが違うんだっけ? みたいなことを探っているのです。

考えるって何なんでしょうね?

そもそも「考える」とは、自分が役割を負っている持ち場(ときにはその周縁)において、課題を抽出したり、課題の共有の仕方を工夫したり、解決策を考えて、実施する方法を組み立てたり…、他にもあったかな? まあそんな感じですよね。

その案件と向かい合っているときには、寝ても覚めてもうっすらと頭のどこかに、その課題を置いておきつつ、なんらかの新しい情報が入ったときに一気に深く集中してその課題に取り組む感じ。

なんとなく、こんな感じの頭の動き方を指して「考える」という行為だと認識していたように思います。

無職になった今、職業人時代を振り返ってみると、さほど「考える」という行為に対して深く掘り下げて「考えた」ことはありませんでしたけどね…。

ただミーティングと称して、ブレーンストーミング的なことをやってみたり、ヒアリングと称して、日頃あまり関わることのない部署の方と意見交換してみたりしてみたりして。
いろいろ新しい視点を得たり、自分が想定していなかった腹落ちの仕方を体験することもあったのですが、その後そのことについて大した振り返りもせず、結果何にも活かせずに忘れ去ってしまうようなことは「良くないことだ」とは感じていました。

みんなで動き回って、無駄にスケジュールを押さえあって、なんとなくバタバタしてみて。
メモしたり、議事録を共有したり、オワリの飲み会でもディスカッションが続いたり…。で、なんとなくそれで満足してしまって。

こういうときって、考えているようで、何も考えていないんですよね。

僕は創造性に乏しい

僕の職業はデザイナーでしたから、長らく「オレの役割は創造性を発揮することだ」なんてことを考えていました。
考え続けていると、自分にしかない独創的なアイデアとか、他の人には真似のできないアウトプットができると思ってたんですよね。

この辺については、かつて投稿した「自分のオリジナルって、なんなんでしょうね?」で触れています。

僕は「誰にでも、その人なりのオリジナリティがある」みたいな考え方を否定するわけじゃありませんが、同時に「そんなもの、なかなか当たるわけないでしょ」とも思っているのです。

僕のような平凡な才覚しか与えられていない人間にとってみれば、創造力よりも調整力のほうがはるかに強いし、「オレにしかできないアウトプットを」と考えながら仕事に取り組むよりも、これまでに出会ってきたものの記憶を組み合わせながら作業を進めていったほうが効率的なんですよね。

というか無意識にやってても、結局そうなっちゃうんですから、あまりオリジナルかどうか? なんて気にしても始まらないんですけどね。
なので「オレはいま、創造力を発揮してる」とも思わないし「調整力をもって、この課題に取り組んでいます」なんてことも、意識すらしてませんよね。

なにが言いたいのかというと、僕は「考える」という工程自体がものすごく大切だと思うのですよ。
でも、それが自分のオリジナルかどうか? そこに自分の創造性が活かされてるかどうか? なんて、意識しても意味がないとすら思っているのです。

前述の通り、若かりし頃はすごく気にしていましたけれどね。

そのせいで、要らぬブレーキをたくさん踏んでしまったような気がしています。
変にオリジナリティ論みたいなもんにかぶれてましたからね。

他人の意見を自分事に落とし込む

繰り返しますが「考える」という行為は、生きていく上でものすごく大切なことだと思っています。
でも「考えるって、いったいなに?」って掘り下げてみると、いまいちしっくりくる言葉がみつからなかったりするのですよ。

たぶんこういうのって、延々とあ〜でもない、こ〜でもないって探し続けるものなんでしょうね。

僕は今、考えるという行為とは「見たり聞いたり読んだりして得た新しい情報(=インプット)を、自分の課題に置き換えてアウトプットに繋げること」なのだろうと思っています。

この数年間、僕はずっと続けていたデザイナーの仕事をやめて無職になったり、東京のマンションを売って、山口県萩市に古民家を買って移住したりと、いろいろと自分を囲む環境を変えてきました。
ずっと自分の中で咀嚼してきたことを、まとめて行動に移した(=アウトプット)感じですね。

そんな感じの今なので、自分のやったことを正当化する成分も含まれてるんですけどね…。

そして、このブログを読んでくれた誰かが「自分もセミリタイア、いけるな。考えてみよう」を経て「セミリタイア人になった。やってみてよかった」と思ってもらえるならば、僕の「考える」という仕事は用を為したことになるのです。

考えるという行為は、誰かから受け取ったバトンを持って走って、また誰かに渡すようなことなのかもしれません。
当然、誰かから受け取った直後と、次の人に渡す直前では、バトンに対する思い入れも、自身の走り方も変わっていて当然なのです。

だから、こうして何かを「考える」たびに書き残しておこうと思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。