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老後もユルく働くことを続ける意義

2019.07.31

こんにちは、萩ドットライフ()です。

老後も働くことを続けていたいのです。そのときどきで思い描いている未来図なんていうものはハズレるに決まってるものではありますが「ずっと人生を調整・修正し続けていたい」のですよ。場面々々で選んだ方法を「正しかった」ことにしたいのです。

ハタチの頃、老後も働くなんて想定していなかった

目の前にハタチの僕がいたならば、そして「お前は、社会に出たあと50年間くらい働くことになるぞ」と告げたら、きっと「キョトン」とされることでしょう。
当たり前ではありますが、その当時の僕は「老後」「定年退職後」「年金暮らし」なんて、いっさい興味を持っていなかったし、イメージすることすらできていなかったのです。

そして40歳の僕に「お前は、55歳にしてデザイナーを引退するぞ。セミリタイアして『また何かの初心者になりたい』とか『もうワンゲーム』とか言いはじめる」と予言して見せても、一笑に付されることでしょう。
すでにフリーランスになっていて「定年」という概念は捨てていたし、ちょうど、デザイナーであることが楽しくて仕方ない時期で「たぶんオレはデザインの仕事を一生の仕事とするんだろうな」と思っていたころです。
80歳になってもデザインの仕事を請け負い、1日中PC前に座って作業をしたり、ヨボヨボとクライアントのオフィスに打ち合わせに出かけていく自分を想像していました。

50代半ばの今、ハタチのときにも40歳のときに想定していなかったことが起きているのです。

思い描いた未来図なんて、ハズれるものなのです。

自分が成長した結果だったり、社会環境が変化していったりで「普通」や「合理的」なことが変わっていくのですよ。
「こんなの普通じゃない」を選んだはずなのに、10年後に「そっか、あれが普通だったんだ」という結果に至ったりするのですよ。

あと30年くらい残っていそうな僕の人生も、ハズれ続けながら生きていくことになるはずです。

今「セミリタイア生活を始めながら、ユルい仕事を見つけて、75歳から80歳くらいまで、遊びみたいな働き方したい」と考え、そして行動し始めているのですが、それも調整と修正を繰り返しながら進んでいくことになろうかと思っています。

なので、今の決断に正解を求めても意味ないのですよ。
自分自身でも「行き当りばったり」を自覚しています。
(参考:「行き当たりばったり」は、思考停止じゃない

「今までやってこなかったこと」をやらないと「今までに起こらなかったこと」は起きないのですよ。

僕は今、人生の転換期なのです。
「今までのオレならば、こんな選択ありえないよな」とか「合理的に考えたら、これはない」という選択肢を選ぶことが求められているフェーズだと思っているのです。
(参考:人生の転換期に起こること

もともと、社会に出るタイミングでは、なんとなく「定年まで働いて、あとは年金もらって暮らすんだろうな」「その頃にはもう何も考えなくてもいいんだろう」程度のことしか考えていませんでした。

その当時の「定年」は55歳。すでに僕はその年齢を超えているし「あれやりたい、こんな人になりたい」と考え続けているのです。

環境の変化に対応するチカラを身に着けていてヨカッタ…か?

オッサン、オバサンに関わらず、年を取った人というものは、自身の過去を肯定したくなるものなのですよ。

たとえば組織の中で出世した人は、その組織やそこで得たポジションにしがみつこうとするでしょうし、やり方を変えたくないという意思が働くものだと思います。
「出世した」ということが自信になっていますから、変革を自分の人生の否定だと捉えてしまうのですよね。

僕は30代半ばでフリーラスになって以降、組織人ではないので「肯定したくなる過去」が、すべて個人の中にあるのですよ。
運よく50代半ばまで、フリーランスのデザイナーとしてメシを食ってこられたのは「環境の変化に対応することができたから」であり、「絶えず調整と修正を繰り返すことができたから」だと思っているのです。

だから「これまでと違ったこと、変化することの方が正しい」というバイアスが働いているという自覚はあります。

  • 「本当にデザイナーを辞めるの? まだ仕事もらえるのにもったいないじゃん」
  • 「長期休暇? 市場は『一生休んでろ』って判断するよ」
  • 「セミリタイアって、それって怠けたいんだよね」

などの葛藤がなかったわけではありませんが、とりあえず今は、自分を変えることにまっしぐらなのです。

前述の通り「正解など求めていない」ということで、折り合いをつけています。

僕は20年以上。サラリーマン時代を含めれば30年にわたってデザイナーを生業としてきていますが「才能がある」と認識したことはありません。
「好き」であることと「継続」できたことで、デザインをメシの種にできたのだと思っています。

自発的に何度も繰り返し行うことで、メシが食えるようになるのですよ。

これから四半世紀くらい働き続けることはイメージできていますので、もういっかい繰り返してみようと思っているのです。
今はまだ持っていない「神経回路」みたいなものを新作してみたいのです。

「好きなもの」の棚卸し

前述の通り、今描いている未来図なんてハズれるに決まっているのですが、残り時間はそれほど大きな誤差はないと思います。

老後も働き続けることの意義として「もう一度、自分を好きになってみる」ということがあると思うのですよ。
「自分を好きになる」というと、ナルシストっぽくて若干の気持ち悪さを伴いますが「自分の好みを棚卸しする」ような行為だと捉えてください。

  • こんなことが好き
  • こんなものが好き
  • こんな人が好き
  • こんな雰囲気が好き
  • こんな場所が好き
  • こんな言葉が好き

思いつく限りの「好き」を目の前に並べながら、自分を構成するパーツを再確認する作業をしたいのですよ。

僕がハタチのときに思っていた「定年まで働いて、その後は余生」でも、40歳のときにイメージした「デザイナーこそが転職。生涯現役」でも、この方法は取れなかったと思うのです。

「以降セミリタイア生活」「いったん長期休暇を取って」「もう1回違う仕事に」という考え方を始めたから思いついた方法なのです。

もちろん、正しい方法かどうかはわかりません。

なんでもそうなのですが、いろんな人がいろんな方法を持っているし、思いつくものなのです。
たとえ誰かが上手く行った方法だったとしても「その人が」「そのときに」「その環境で」「そのタイミングで」「その条件で」だからこそ正しかったのです。
ひとつでもピースのカタチが違えば、結果は違ったものになるのですよ。

だから「方法」というものは、どれも正しいし、どれも正しくないのですよ。

数年後に「あのとき、あれ選んで正しかったな」ということにするのは、自分自身なのですよ。
「ずっと人生を調整・修正し続ける」「数年後、答え合わせをするタイミングを見逃さない」ために、ユルユルで構わないから、働き続けていたいのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。