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仕事に取り組む態度。「並」の大切さ

2019.09.25

こんにちは、萩ドットライフ()です。

「フリーのデザイナーとして、思ったよりも長く続いたな」と、過去を振り返ってみたりしています。職業人の寿命を伸ばすために最も大切なものは「仕事に取り組む態度」だと思います。僕は加齢とともに維持できなくなったから、いったん退くのです。

ようやく無職になり「さあ、これからまとまった休暇だ」「まずは、身の回りを軽くすることから始めよう」と、これからのことを少しずつ、考え始めているところです。

(参考)

同時に、ずっと自分の生活を支えてくれた、デザイナーとしての職業人生を振り返ってみているのです。

とくに30代半ばでフリーランスになってからの20年ちょっとは、いわゆる「ひとり親方」という状態。途中、メインクライアントの業務提携を外されたり、僕自身がパニック障害を発症して、3ヶ月間の休みを取ったりしたことはありましたが、概ね「食うに困らない」状態を保ち続けることができたことに感謝しています。

僕は「運」に恵まれていたのです。

美大芸大やデザイン学校を卒業したわけでもなく、業界にそれなりの人脈があるわけでもないことがコンプレックスだったのですが、それでも何とかなったのは「運」だったり「人との出会い」だったり「環境変化へのマッチング」だったりが上手くいってくらたからだと思っています。
(参考:何歳になってもコンプレックスを克服できない

オッサンの思い出話なので、興味のある方は読み進めてください。

「並」の大切さ

「その店の味はね、並を頼めばよく分かるんだよ」みたいな言い回しがあります。

寿司屋でもとんかつ屋でも、なんでもいいのですが、メニューに「特上」「上」「並」があるとします。
「特上」に一番いい素材を使ったり、手間暇かけて丁寧に調理する。当然一番美味い。なんていうのは、当たり前なのですよ。

「並」をそれなりにきちんと仕上げて、「並」を頼んでくれるお客さんを大切に扱う。
そんな店が「いい店」なんだ、ということなのです。

出典は失念してしまいましたが、なんとなく覚えていたのですよ。

フリーランスになったばかりの頃は、以前投稿した「:フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう」でも書いたように、最初の数年は全然食えませんでしたから、精神論的なことを含め「ちょっとありがたい、お言葉」みたいなものを、とても大切にしていたのです。

とくにこの「並の大切さ」の話は、何度も心の中で唱えた言葉でしたね。

  • 「つまんない、安い仕事でも、この仕事を一生懸命やるかどうか試されてるんだ」
  • 「先方の期待を上回る仕上げにしよう」

みたいなことをよく考えていました。

たぶんこの考え方、間違ってないですよ。
こちらが「並」を丁寧に仕上げても、先方に届かないことなんてよくあります。
「こっちもこの予算だから、こんな感じになっちゃうわなあ」と嫌味を言われたこともあります。

でも「並を大切にする」態度が、僕の成果物のクオリティを少しずつ上げることに寄与してくれたと思っています。

冒頭で書いたように、どうにかこうにか50代半ばまでフリーのデザイナーで食ってこられた原動力になってくれていると、僕は思っています。

「よろこばれる」を目指す

僕のみならず、人は「ほめられる」と嬉しいものなのですよ。
誰しも承認欲求ってありますからね。

当然50歳を超え、無職になり、これから1年以上の長期休暇に入る僕にも、承認欲求はあります。
もう何もしなくなったくせに、どこかしらに「ほめられたい」は残っています。

自分を好きであることが心地良いし、自分を社会的に価値のある存在だと信じていたいのですよね。

ところが「ほめられよう」として仕事に取り組むと、結局、発注者の好き嫌いに合わせることになるんです。
「並の大切さ」を意識して、仕事が少し回り始めた頃に、ぼんやりと気づき始めたのですが、先方の好みに合わせ過ぎると、自分の「並」のクオリティを上げていく作業との矛盾を起こすのですよ。

仕事なので当然、先方の好みは意識しますし、自分の意見も通したい。
上手くコミュニケーションをしながら、クオリティを上げていきたいのです。

言語化すると、しっくりこないのですが「ほめられる」ことよりも「よろこばれる」ことを望むべきだと思うのです。

「こちらの指示通りに仕上げてくれてありがとう。満足しています」は「ほめられる」。
「こちらの指示よりもいい提案をしてくれてありがとう。あなたに頼んで良かった」が「よろこばれる」。

そんな感じの、似ているようでちょっと違うところを大切にするといいように感じます。
後者のほうが「プロ感」強くないですか?

おそらく双方とも、クライアントは満足しながら業務を完結できるのですよ。
でも、このちょっとの差がキャスティングに影響してくると思うんですよね。

「だからオレは、20年間メシを食うことができた。見習え」というつもりはさらさらありません。
「ずっと、こんなことを考えていました」「この歳まで仕事ができたことと無関係ではないように思うのです」程度のことなので、よろしければご参考に。

加齢とともに欠けていくのです

僕が今こうして、デザイナーの職を引退し、長期休暇をとりつつ、自分と向き合い直したい。そして、次の働き方を「生産的な趣味」程度に留め、職業人としての寿命を伸ばすことを考えようとしているのは「並の大切さ」「よろこばれる仕事」を上手に維持できなくなってきたからなのです。

焼きが回ったのですよ。承認欲求だけはちゃんと残っています。

こうして毎日投稿している、このブログ記事も「特上」ではなく「並」なのです。
前もって構成を考えたり、調べ物をして書き始めるわけでもなく、朝起きて、テーマを決めて、下書きもせずいきなり書き始めます。
当然、大した推敲をすることもなく、アイキャッチの写真もテキトーに選び投稿しています。

1年以上前の開設直後に『創造は「質より量」だと仮定する』という記事を投稿しているように「60点程度の出来でいいや」と思っているのです。

まったくもって「並の大切さ」を意識できていないのです。

「だから続いている」という事実もあり、現在の僕はそれを重要視しています。
また「仕事として初めてはいないから」というエクスキューズもあったりしますし、このだらだらとその日思いついたことを書いていく感じがここち良かったりしているのです。

職業人の寿命を伸ばすものは、当然「技量」や「センス」も大切なのでしょうが、それ以上に「仕事に取り組む態度」が重要なのだと思います。
前述の通り、オッサンになるにつれ、それを維持できなくなっているのですよ。

失ってはじめて、強く自覚したのです。

理由は、おそらく一般的に言われているような「老いると頭が固くなる」とか「更年期障害で、精神的に安定しない」とか「老眼が進んで、集中力が欠けてる」とか、そんな感じのものの複合だと思います。

あ〜だこ〜だと足掻いてどうにかなるものではないような気がしています。
だから、いったん無職になって、長く休んでみることにしたのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。