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体で覚える、ということ

2020.01.30

こんにちは、萩ドットライフ()です。

朝起きて「さてブログ書こうかな」と意識することがなくなって随分経ちます。習慣化だのルーティーンだの、いろんな言い方はありますが、いわゆる「体で覚える」ってことなんですよね。最初は借り物だった思考や行動が、自分のものになってるのです。

反復の先にあるもの

そもそも体(カラダ)が何かを覚えるなんてことはなくて、その役割は脳が担ってるに決まっているのですよ。それでも僕たちは昔から「体で覚える」という慣用表現を僕たちは使い続けています。

反復練習を基本とした根性論と相まって「それは古い価値観だ」とお考えの方も少なからずおられるのではないのでしょうか。

でも、これって

  • 習慣化しよう
  • ルーティーンだ
  • 考えなくても自然にカラダが動く感覚を作ろう

ってことなんですよ。

こういう言い方に変えれば、昭和の体育会的な匂いも若干はマイルドになるかもですね。

たとえば僕は、中学から大学まで、ずっとバレーボールをやっていましたが、その中に「サーブ」というプレーがあります。
初めてやったときには、ボールが手に当たらなかったり、思った方向にボールが飛んでいってくれなかったり…。まあ、誰もがダサい体験をするものなのですよ。

ところが、ボールをトスアップする場所やタイミング、スイングの仕方やミートしたときの感触の得かたなどなどを試行錯誤しながら反復(=練習)するうちに、だんだんとイメージ通りのプレーができるようになってきます。

いったん上手くできるようになると、以降はあれやこれやを考えずとも「できる」ようになります。
調子の良し悪しはありますけどね。

これが「体で覚える」なのです。

当然、変化が起こったのは主に「脳」なのですが、「体で覚える」と表現するのですよ。
「主に」というのは「反復によってプレーに必要な筋力もついてることは分かってるんだけど、それは今回無視しようか」ってことです。

実際は、プレーのレベルを向上させるために、ずっと思考を続けながら練習し続けることになるのですが、いったんできるようになったレベルのプレーは、考えなくてもできるようになります。

「覚える」が、その先の「自分のものになった」という状態ですね。

体で覚えたものって、忘れませんよね

とくにスポーツの話がしたいわけではないのです。

「自転車に乗る」もそうだし、「包丁を使う」や「楽器を演奏する」など、一度覚えたことはやらなくなってかなりの時間が空いたとしても、体が覚えていてすぐにできちゃいますよね。

逆に「1日練習をサボったら、取り戻すのに3日かかる」みたいな言い方もありましたね。
昭和時代は「休まないことが正義」って考えてる人も多かったので、そのための方便に使っていた指導者も多かったんじゃないでしょうか。

でも、少しだけその時代の弁護をすれば、昭和の体育会がすべてそんな感じだったワケじゃありませんよ。
僕の大学時代、関東1部リーグに所属するいわゆる強豪チームでしたけど、週1日はかならず休みでした。「レスト」って呼んでましたけどね。

監督が「いい練習。いい食事。いい休養」って、よく言ってました。
休養も練習カリキュラムの1部だったのです。

でも、ほんの数日練習しないと、ちょっとした感覚や精度が落ちることは確かですよ。

体で覚えたことって、ある程度回復するのは一瞬ですが、精度や高いレベルを取り戻すのにはそこそこの時間が必要なんですよね。

ところで、数学の公式やら、歴史の年号とか人名はさっぱり覚えてないのですが、これはどうしてなんでしょうね? 「体で覚える」ものじゃないからなんでしょうかね。

ググってみると「記憶には、頭で覚えるものと、体で覚えるものの2種類があるんじゃ。」らしいです。

 記憶には、頭で覚える「陳述的記憶(ちんじゅつてききおく)」と、体で覚える「手続き記憶」(技の記憶)の2種類があります。
 むずかしい漢字を覚えたり、計算のしかたを覚えたりするのが「陳述的記憶」です。「海馬」は、「陳述的記憶」をするときに、大切な役割をはたしています。この記憶は、一度覚えても、けっこう忘れてしまったりします。
 「手続き記憶」は、自転車の乗り方や泳ぎ方などを覚える記憶です。一度しっかり覚えれば、なかなか忘れることはありません。10年間も自転車に乗らなくても体が覚えていて、ちゃんと乗ることができます。
 この2種類の記憶は両方とも、脳を使って記憶している点では同じです。
(出典:日本学術会議_おもしろ情報館

くり返せば自分のものになる

僕はこれまで30年以上、デザイナーを生業としてきましたが、数多くの「体で覚える」に出会ってきました。

ずっと僕たちが言っていた「引き出し」だとか「クセ」「○○流」「○○節」「スタイル」みたいなのって、各職業人がアタマでいちいち考えなくても、自然にアウトプットできてしまうものを指しているのですよね。

これまでのどこかで、理論的に考えていたり、他人に影響を受けていたり、技術を習得していたりしたことがスッパリ忘れて「自分のもの」になっているのですよ。

まあ「その時点で評価を仰ぐか?」「それとも、もうひと練りするか?」みたいなことは臨機応変に考えますけどね…。

今こうして、毎日ブログを書いているのも、朝起きて「ヨシ、これについて書いてみよう」と思いついたことを書き始め、途中あちこちに迷走しながらも、最後はどうにかこうにか話を着地させる、という訓練をしているのですよ。

このブログを開設して1年半が過ぎようとしていますが、「毎日何かについて2,000字程度書く」については、全く問題なくできるようになっています。

文章の上手下手については、過去記事に目を通すたびに「なんだこれ、誰が書いたんだ?」と思っています。
それでもブログ開設当時から比べると、少しずつ猿から人間に近づきつつあるように思います。

もう「今日、ブログ書こうかな?」などとは考えていないのです。勝手にカラダが動くようになっています。

これからの人生、まだまだ新しいこと出会うことになろうかと思うのですよ。

今も、無職になって長期休養中とはいえ、これからのことについて、あれやこれやと考えながら、次の行動について決断し続けているのです。
以前投稿した「量と質どっちが大切? について考える」で触れたように、僕は「量が質を担保する」と考えています。

いま考え続けているあれやこれや。
中には、書籍やSNSに書いてあったこと、動画や飲み会で誰かが言ってたこと、言葉や表現や思考スタイルを借り物のまま、自分の中に取り入れているものもあります。

だけど、ずっとずっと何度も何度も思考を繰り返していけば、そのうち呼吸をするように自分の中から生み出されるものになっていくはずなのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。