プロフィール

こんにちは、萩ドットライフ(@hagidotlife)です。

現在、東京の清澄白河という街に住んでいます。
清澄白河というのは、町名ではありません。江東区清澄と江東区白河にまたがる、東京メトロ半蔵門線・都営地下鉄大江戸線「清澄白河」駅の周辺エリアを指します。

「山口県萩市でセミリタイア生活」をテーマにキャリアスライドしたいと思っています。山口県萩市は僕が生まれた街なんです。
「ならば、準備期間から書き始めるか」とこのブログを書き始めました。いわば「山口県萩市でセミリタイア生活したいくせに東京から離れられず、起こったこと、思ってることを見切り発車で書き始めてみるけど、実現するかどうかわからない、実現すればいいなぁ」な感じのブログなのです。
看板に偽りがあってスミマセン。

「田舎暮らしに憧れて」ってワケでもないんですよね

「東京で得られる所得を地方で消費したい」と思ってます。
東京の方が高いものもあれば、地方の方が高いものもあるでしょうから、一概に「マネーセーブになるよね」などとは思っていません。
ただ、自分の資産や生活スタイルを考えたときに、地方暮らしの方が、コストパフォーマンスが高いように感じるのです。

地方に移住するのであれば、生まれた街に帰るのが一番自然だし、楽かな? と思っています。
土地勘があるし、知人もいる。親の介護のときにも好都合かもしれない。そのくらいの感覚で、萩市への移住を企んでいるのです。

長らく東京で暮らしました。
考え方や感覚、ルールや風習が異なることもあるでしょう。だって、僕が知ってる萩は、高校生までの萩なんですから、萩人レベルは子供のころのままなのですね。
生活をしていれば、ずっと萩で暮らしてきた人たちと、諍(いさか)いに発展することもあるかもしれません。
そんなときは「クソっ! このイナカもんが」と感じることになるだろうと想像します。
しかし、僕は生まれた街に帰るのですから「ま、オレもここの出。もともとはイナカもんなんだからしかたねえか」と感情に折り合いをつけやすいような気がするのです。

「憧れの田舎ライフを堪能します」でも「この街の活性化に微力ながら寄与いたします」でもないのです。
ユルユルラクラクな生活をしたいんですよ。

少年時代

生まれたのは萩市吉田町でした。小学校は明倫小。学校内に旧藩校・明倫館の史跡があり、敷地内に観光客がいました。
中学校は萩一中(今の東中)。バレー部でした。
入学後すぐに椿東上野に引っ越しました。学校から1.5kmありましたけど、徒歩通学でしたね。たしか、2km超えないと自転車通学できないんだったっけな?
この家が今でも帰省先です。

高校は萩高でした。4kmの道のりを自転車で通いました。ここでもバレー部。毎日、練習着持っていくので、カバン2つでしたね。
弁当も2つ持っていってました。2時限終了後に0.5、昼休みに1、練習前に0.5 食べてました。

学生時代

中・高と6年間バレーボールをやっていたので、いつしか「強いところでプレーしたい」「将来、指導者になって自分のチームもちたい」と思うようになっていました。その願いをかなえるため、バレー部が強く体育学部がある大学をいくつか受験しました。

1回目は失敗、浪人しました。浪人中の1年間も萩高に通いました。
補修科って今でもあるんでしょうかね? 高校に付設された予備校みたいなもんでしたね。ホントは広島とか福岡の予備校に通いたかったんですが、体育学部志望なので実技試験に備えて、体育館を使わせてもらう必要があったんです。もちろん、高校のバレー部の練習に参加しつつの指導アシストは必須になりますね。
2年目は第一志望に合格。順天堂大学に進学することになり、萩を出て千葉県の習志野市民になります。順天堂って、1年間寮生活しなきゃいけないんですよ。1室5〜6名、体育学部と医学部が混ざって生活するんですが、今となってはいい思い出ですね。
2年生になったら、寮を出てバレー部の合宿所暮らし。合宿所って言っても、ボロボロの木造アパートを借り上げてるだけだったんですけどね。
「チームメイトに全日本選手のいる風景」とか「昭和の体育会あるある」みたいな物語はいっぱいありますが、このブログとは趣(おもむき)が違うので、とくに触れません。

職業なんて決めてなかった

大学4年のとき、山口県の教員採用試験を受けました。高校保健体育。落ちました。
1年目で落ちるのはザラで、講師として勤務しながら次年に再挑戦するのが通常の方法だったようですが、僕はそれをしませんでした。
自分の会社を持ちたいと思うようになってたんですね。そんなに熱を持ってる感じではなく「なんとなく」な感じですね。
できることならば零細企業に就職したいと思っていました。だって、何年後かに自分が会社を作るとき、まずは零細企業を作るに決まってるんですから。零細企業どころか「ひとり社長」からはじめることになりますからね。

やりたい職業なんてありませんでした。希望は「10年後に自分の会社を作りたい」という、なんともいいかげんなものでした。
あまり考えてなかったってことですね。

別途書くことになると思いますが、10年も要らなかったように思います。
学生時代にゼミの教授が「会社でモノを言えるようになるまでに10年はかかるぞ」みたいなことを言ってたんです。たぶんそこから「10年後に」って発想したように覚えてます。今なら「独立したいときにすりゃいいよ」って思いますかね。

デザイナーになりました

小さい会社なんて、何でも屋なんですよ。名刺には「営業部」って書いてありました。
その名刺で、仕入れもするし、配達も、製品企画もなんでもやるわけです。印刷物も作るし、イベントの運営もする。
人手が足りなけりゃ、パートのおばちゃんに混ざって組み立て・梱包。そこに気づきがあって、パッケージや説明書の用紙サイズを更新したり。

一番ハマったのが、印刷物やイベントの掲示物の制作です。もちろん発注側です。
いろんな業者に依頼しながら進めて行くのですが、その中のひとりに、個人経営のデザイナーさんがいました。本人は「設計者」と名乗っておられたのですが、パンフやリーフレット、チラシを発注していました。
その人が道具を持ってきて、僕と会話しながら、目の前で作業していくんですよ。そりゃ、手伝いますよね。
何年も経過すると、双方で作業分担するようになるし、自分だけで作業を進めるようにもなる。
写植の発注から、版下制作(トレーシングペーパー被せて指定を手書きするんですよ)、製版所の人とのやりとりまで、ひととおりやるようになってましたね。

そうこうするうちに、世の中だんだんと「Macでできるよ、DTPっての」ってことになってきました。
最初のうちはみんなバカにしてたんじゃなかったかな? 世の常ですね。バカにすべき理由は、探そうと思えばいくらでもありましたしし、「新しいもん、とりあえずdisっとけ大喜利」みたいなのが始まりますしね。
僕は、気になって気になって仕方なくて、ずっと「いいな〜」と情報誌を眺める日々でした。このころMac関係の雑誌、毎号買ってましたね。しかも捨てずにベッド横に積んでた。
PowerMacブームのときにようやく社長を口説きに口説いて購入。DTPデザイナー(この職業名、難アリだと思うんだけど、もう一般名称だよね)っぽい感じになります。
OEMで他社製品も作ってた会社だったんだけど、パッケージや取説、ブリスターパックの台紙、チラシ、店頭DSPなんかも込みで受注できるようになり、そのころは完全にハウスデザイナーと化してました。

なんとなく「オレ、デザイナーとして独立するんだろうな」と。
美術・芸術系の教育受けたわけでもないし、広告代理店や制作会社に勤務したこともない。いろいろ不安は山積みでしたけど「ま、いいや。デザインの注文もらえるヤツがデザイナーなんだし」ということで独立に踏み切ります。

社会人経験10年になるタイミングでした。

自分の会社を持ちました

最初は3人いたんですよ。当時、出資金の最低金額って決まってましたから、300万円で有限会社設立。各自100万円ずつ出し合いました。1997年のこと。
結局は、3年後に僕が他2人の出資分を買い取る形で、ひとり社長になりました。3人が3人ともやりたいこと、できることが違ってたんですね。遠い日の思い出です。

会社設立して2年間舞台公演をプロデュースしていました。
デザイナーをしていると、自分が作ったものを見る人がどんな表情をしているのかわかりませんよね。これが不満だったんです。
内容や経緯は、別途記事にするかもしれませんが、ここでは省きます。
ただ僕、シロートなんです。右も左もわからずに見切り発車。劇団の方やダンスチームの方々のチカラを借りながら、どうにかこうにか進めていきました。とにかくチームのみんなに大感謝しかありませんでした。
結果、初演・再演含めて、全部で5日間8ステージやったのですが、全席完売。雑誌「AERA」で4ページの記事にしてもらったり、フジテレビ・NHKの報道番組でも特集組んでもらいましたし、TBSの年末特番にもキャスティングしてもらったり。
このときのポスター、チラシ(フライヤー)、パンフ、もちろん自分で作りました。公演の規模にそぐわぬ充実した印刷物だったと思います。いろんな企業回って協賛募ってたんですね、その各社への約束もありましたので、それはそれは、ごリッパな印刷物に。
実際、印刷物の充実っぷりと、この規模の公演に協賛が付くことに、関わってくれた劇団員がビックリしてました。
「企業メセナ協議会」ってところの助成事業に選ばれたのが大きかったですね。

これらの印刷物、もちろんフルカラー(4色刷)なんですが、当時PowerBook 5300ってノートパソコンしか持ってなくて、それで作りました。「5300c」じゃありません「5300」です。モニタがモノクロなんですよ。
かつて、版下を作ってたときの記憶が役にたちました。印刷会社でちょっとした話題になったようです。
写真をポジフィルムで入稿したの、このときが最後になりましたね。以来、ライトボックスは物置→粗大ごみへ。

思い出としては極上のものを得られました。ところが、事業としては大赤字。
「さ、デザイナーに戻って返すか」と思うしかないですよね。

Webデザイナーを名乗りはじめました

まわりを見渡したらどうやら「景気が悪いね」って話になってるっぽい。1999年でした。いろんな制作会社を「フリーのDTPデザイナー要りませんか?」と回ってみたんだけど、どうもしっくりこない。
そんなときに「Web制作頼めないか」という仕事が舞い込んできたんです。はい、シロートです。

それまでのWeb制作経験といえば、自分の会社のホームページを作っただけ。自分から見ても、印刷物のセンスをなんとかWebに押し込もうとした、ダサい代物でしたね。
「頼めないか」と言われても、自信なんかありゃしません。でも、ありがたい話なので「はい、お請けします」「なんとかします」と受注。これまた見切り発車ですね。
この案件を制作しながらいろいろ覚えた感じですね。どうにかなるもんです。

これが実はワリと大きな案件だったんです。おかげで「オレ、これで食えるな」と。
それ以来、ずっとWeb制作を本業にしています。

概ね、運と周りの人に恵まれてますね。
ずっと発注してくれてるクライアントがあります。その会社の合併のどさくさで、いっとき戦力外になったこともありましたが、2年後には提携業者に戻してくれました。
このメインクライアントの存在のお陰で、他の取引を冷静に判断することができました。
今では「依頼が発生する『かもしれない』」の段階でスケジュールを確保するのは、このメインクライアントの案件だけです。

セミリタイア状態になってもここの案件だけは、可能な限りお請けしようと思います。

匿名ブログにしようと思います

冒頭「こんにちは、萩ドットライフ(@hagidotlife)です」と名乗ったように、匿名にしようと思っています。
しかし、ワリと詳細に経歴を書いてみました。旧知の人が見ると、あっさり身バレすると思うのです。
「生まれた街に帰るよ」「セミリタイアするよ」「所得に対する考え方を変えるよ」みたいな、人生の岐路っぽい話をしていきたいので、背景は可能な限りクッキリさせたいのですよ。
だから、身バレしても構わないと思っています。

ただ、こういうテーマでは、金銭的な話題を避けることは難しいと思っています。このブログも収益化したいし、そうすると「運用成績」みたいなコンテンツも書くだろうし。
資産運用にしても、なんとなく規模感と運用益は、公開とまではいかなくてもなんとなく想像できる方が面白いでしょうしね。
そんなに神経質になってるわけじゃありません。勤務先がわかれば、なんとなくフトコロ具合もわかるこのご時世ですからね。
自分はバレてもいいんですよ。問題は家族とかにね「金、融通してくれ」とか「誰々が困ってる」みたいな話が行くのが嫌なんですよ。実家、客商売してますからね「お断りします」と言わない断り方できる余地を作りたいのです。
実名さえ出してなければ「萩ドットライフ? そんなのやってるのはウチの家族じゃないと思いますよ、よく知りませんけど」で逃げられるでしょう。

セミリタイアはセミワーク

金、要らんわけないですよね。年金出るまでにまだ相当期間ありますし、僕、国民年金しか払ってない期間が長かったり、どん底のときには、相当の未納期間もあるので、65歳で受給し始めるとたぶん8万円/月くらいなんですよ。だから「悠々自適な年金生活」なんてものは、ありゃしないのです。
なので「不動産運用」「金融資産運用」「労働」の3本柱で、老後の組み立てを考えています。

1 不動産運用

今住んでるマンションを賃貸に出します、まだ住宅ローン返済中です。「住宅ローン借りながら、賃貸に出せないんじゃないの?」そのとおりです。でも、こうしてブログで公開する以上、クリーンハンドで実施します。規約違反はいたしません。この辺はまた追々。

2 金融資産運用

実は住宅ローンを一括返済できるだけの金融資産は、すでにあるのですよ。これを運用しつつ萩で生活する資金にしようかと。
インデックスファンドとETFをいくつか保有していています。個別株を激しく売買していたり、FXで一攫千金を狙ってるワケじゃありません。基本、ほったらかしですよ。
なので、手に汗握るような記事はかけませんが、投資環境について思うこととか、なんでこういうポートフォリオにしてるのか、とかを思いつくままに書いていこうと思います。

3 労働

上記1・2を合せると、贅沢さえしなけりゃ死なない感じにはなってるんです。ただ、もう少しゆとりがほしいので「労働」による所得を加えようという目論見なんですね。だから、新規請負とか協業とかのメンド臭いことはもうやりません。
あくまで「セミワーク」。自分の好きなことだけ、好きなタイミングでやっていたいのです。
東京のメインクライアントの仕事を先方が望む限り引き受けること、そして、このブログ「萩ドットライフ」から少しでも収益を得られるように運用してみようと思っています。
クライアントワークを完全リモートで捌きつつ、自己完結型の労働を育てようと思っています。

今まで、ブログの運用をしたことはありません。でも「やってみると楽しそうかな」と思ってます。ずっとデザイナーをやってきて、コピーや写真、動画を素材として供給されることは多かったのですが、自分で作った経験はまったくないのです。
「オレもそれ、初心者になって始めてみたいな」と。最初はダサいものを公開することになります。ダサいものを量産しつつ、だんだん上手くなって、受け入れられるようになれば、来訪者がふえるだろうし収益にも反映される。勝手にそう思っています。
制作者としての自給自足をしてみたいんですよ。都会に疲れたおっちゃんが、就農したがるみたいな感じですかね。
僕の人生ストーリーの中に必要な「景」だと思っちゃったんですよね。

これまで、人生の節目々々で、何かの初心者になることを繰り返してきました。楽しいんですよね。
あと、何ゲームできるのか。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。

(最終更新日: |投稿者: