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定年後に大学院とかに通う人の気持が、ちょっとわかる

2021.04.10

こんにちは、萩ドットライフ()です。

その昔、定年後に大学や大学院に通ってる人の話を聞くことが何度かありました。若かりし頃の僕は「そんなことして、何が楽しいんだろう」なんて思っていましたが、今はわかります。役に立とうが立つまいが、知りたいことを知るって、楽しいのです。

「あの人、いま大学院に通ってるよ」

ついこないだも、似たようなことを書いたなあと思いながら、過去記事を検索してみると「なんの役にも立たなそうなことに没頭する楽しさ」って言う記事を投稿してからまだ1週間も経ってないんですね。

また似たような事を考えているので、似たような記事を書きます。

もう付き合いはなくなっちゃってるし、20歳も30歳も年長の方々もおられるので、ご存命かどうかも定かじゃなかったりしますが、若い頃から定期的に「あの人、早期退職して大学に入り直したってよ」とか「定年後に大学院に通ってるよ」みたいな話を聞くことがありました。

当時の僕は「もうのんびりできるんだから、ダラけた生活すりゃいいのに」「そんなに真面目な人だったっけ?」なんて印象を持ちながら話を聞いていました。
「自分だったら…」と、南の島の海辺で寝そべってる様子を思い浮かべたりもしていました。発想が貧困ですね…。

だって高校や大学の頃、授業や講義に出るの、嫌で嫌で仕方なかったんですもん。
とくに大学なんて、人数少ない学校で、出席や課題にメチャクチャ厳しいところだったから、陰鬱な気持ちになりながら通っていたところですよ。

「なんで好きこのんで、そんなところに通うんだ?」なんて思っていましたね。

巷間言われ続けている「生涯学び続けることは、とても豊かなことなんだ」とか「四十(六十)の手習い」みたいなことは、頭では分かっていましたけどね。
実感を得られる年齢じゃなかったんでしょうね。

余談ですが、フリーになってからは、他人のそういう話を聞かなくなりました。
これに関しては、いろいろと思うところがありますが、本論ではないので、いずれどこかでまた…。

自分がセミリタイアした今、その人達の気持ちがものすごくわかります。

僕が大学院に通いたいかというと、そこまで大袈裟に考えてるわけじゃありません。
準備やら、時間の拘束やら、場所の移動やら、いろいろな折り合いを付けなきゃいけないのも面倒ですからね。

別になんの役にも立たないんだけど

前項の冒頭で紹介した過去記事のタイトルまんまなのですが、なんの役にも立たないことって楽しいのですよ。

早期退職でも定年でも、これまでずっと「仕事に役立てるため」と思いながら取り組んできたことから、いったん解放されるんですよね。
一から「自分で選んだもの」と向かい合えるのです。

それを言っちゃうと、職業も「自分で選んだもの」なのではありますが、時間とともに「生活のための義務」みたいな要素が入り込んで、いつの間にか「選んだ感」が薄れてしまいますよね。

僕は、以前「物いらない。もらうことがイヤなのです」という記事を投稿したことがあります。
他人から物をもらうのが苦手なのです。

理由を上げていくときりがありませんが「自分で選ぶ」という行為が大好きなのですよ。
そこを端折って何かが自分の物になるのって、ちょっと楽しみを奪われた感じがするんですよね、楽しくないのです。

頂いたものが、ものすごく良いもので、好みに合致していたとしても、です。

逆に「自分で選んだものだからこそ、いい」ってこともありますよね。
本当は心のどこかで「失敗した…」「後悔たまらん…」って思ってるくせに「これを選んで正解だった」って自分に思い込ませようともしますしね。

僕はおそらく、この傾向が強いです。
だから、他人に何かを選んでもらうことにものすごい抵抗感があるのです。

学習にしたって同様です。
「仕事に役立てる」という要素が入り込むと、どうしても他人に選ばれてる感が付きまとうんですよね。

ただひたすら楽しいですよね

なにかの役になんて立たなくても、単純に「もっと知りたい」「なんか興味をひかれる」という動機で取り組む学習って、本当に豊かな時間なんですよね。

これまでも、いちいち考えてやってたわけではありませんが、学習というよりはただ楽しいからやっていたことはあります。
老眼が進む前は、寝る前に必ず本を読んでいた時期も長くありましたし、仕事のことを調べつつ、ちょっと寄り道して関心のある分野のブックマークをいっぱい集めてたり。

特定の分野に関する動画を検索して、睡眠を削りながらでも延々と観続けたり。

別にそれで収入が上がるわけでも、仕事がたくさん舞い込んでくるわけでもありません。
でも、ほんのちょっとだけ視点が変わったり、会話中に反応できるポイントが増えたりするんですよね。

いまにして思えば、そういうのが本当の学習だったのかもしれませんね。
仕事を辞めたいま取り組んでるものって、それらの延長上にあったりしますもん。

これから先、興味のポイントは点々と移動していくのでしょうが、ただひたすら楽しくて、もっとおもしろいものを求め続けるような気がします。

役に立たないから、いいんでしょうね

セミリタイアした僕にとって「役に立たない」って、ものすごく気が楽なんですよね。
以前「職業人時代。僕は役に立つ知識ばかりを得ようとしていた」なんて記事を投稿したこともありますが、この「役に立つ」という言葉が、ものすごく視野を狭めていたような気がします。

よくいえば「集中できていた」のでしょうけどね。

ちょっと集中をゆるめて、少し広く、全体的にぼんやりとした視界が心地いいのです。

映画や芝居を観るときって、よほどのマニアでもない限り、さほどディテールや細かい構成なんて気にしないじゃないですか。
ただひたすらに物語に没頭しますよね。
たいくつなシーンでは、違うことを考えたりしながらね。

僕は去年の秋、自動車学校に通っていました。
(参考:50代半ばにして、自動車運転免許を取りました

これは「役に立つ」学習でした。
ちゃんと技能を習得して、運転免許を取得しないと、車を使った生活ができませんからね。

これはこれで構わないのです。
無事、免許を取得できて「受講料払った甲斐があったなあ」と感じています。

いま趣味的に取り組んでいる「電気工事」やら「情報技術」に関しては、観劇的な要素が強いように思っています。

おそらく、僕が若かりし頃耳にした「いま大学院に通ってるよ」な方々も、楽しみと豊かさを求めて行動されてたんだろうなと思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。