「言う」が激減して、思うこと
2021.03.12
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。考えていることを「言う」よりも「書く」という形でアウトプットすることが多くなっています。毎朝ブログを書いているからだし、コロナ禍で人と会話をする機会が減っているからです。思考する内容にも、少なからず影響あるような気がするんですよね。
言葉にはするけど「言う」には至らない
あまり「物申したい」ことがない人生を送ってきたし、たぶんこれから先もそうなのだろうと思います。
「10年経ってもまだ福島の被災者たちは苦しんでる、あなたはどう思う?」とか「NTTが総務省や政治家を接待していた問題、何か言いたいことはないのか?」と問われても、せいぜいどこかで見た記事やらネット上の書き込みを、あたかも自分の意見のように言ってお茶を濁すか、相手がややこしそうだったら「ん〜。とくにないなあ」と答えるのが関の山だろうという気がしています。
日頃から、SNSでも実社会でも「社会が…」「政治が…」「制度が…」と、何かに対して物申し続けている方々にとって、僕はとても「嘆かわしい人」なのだろうと思います。
どうしても「言う(=しゃべる)」を続けてると、自分の中で思ってることとの乖離に気がついて、それがものすごく気持ちが悪くなる瞬間ってあるのですよ。
そして、それは事前になんとなくわかったりするのです。
その原因は、相手だったり、テーマだったり、いろいろですけどね。
要するに、僕はしゃべるのが下手くそなのでしょうね。
しゃべるのが嫌いなわけではありません。
「相手のリズムと上手くハマれば」とか「関心のあるテーマならば」とか「自分がちゃんと考えてることならば」とか、いろいろと条件はありますけどね。
かつて職業人だったころには日常的に、打ち合わせはあるし、打ち上げでも色んな人と語らなきゃいけないし、個人的に音声通話(=電話とか)でのコミュニケーションを求められたときも、それなりに対応していたので、「そこそこ楽しそうにしゃべるヤツ」ではあったと思います。
こうして今、無職になって山口県萩市の街外れに移住して、しかもコロナ禍なので、思っていることを「言う」機会が激減してますね。
反面、僕は毎日こうしてブログを書くことで、考えていることを言葉にはし続けています。
意外と、いろいろ考えているのです
しゃべるのが上手い人を見て、羨ましくなることはあります。
「この人。しゃべりながら周囲を観察しつつ、ずっと内容やら調子やらを微調整し続けてるなあ」と感じる人なんかと出会うと「スゲえな、こりゃ敵わない」「こんなに上手くしゃべれたら、さぞ気持ちいいだろうなあ」と仰ぎ見たりもします。
それに比べて、自分のしゃべり方はどうしてこうも独りよがりだし、話題に乏しいのか? どうして人を引きつける間(ま)やら抑揚を駆使できないのか? と暗澹たる気持ちにさせられます。
場面によっては、しゃべる係をそういう方に任せて、僕はスイッチ・オフしていることも多々あります。
けれども、何も考えていないわけではないのです。
郵便ポストに候補者のパンフが入って入れば「そうか、今月は萩市長選か」と思い、候補者の名前でググってみたり、公開討論会をYouTubeで見たりして、あ〜でもないこ〜でもないとやっています。
最値を更新し続ける株価や世界経済についても思うところありますし、アートに関しても、社会問題、スポーツ関連、地域創生…、様々なことに関心があって、それなりにあれやこれやと考えはしているのです。
それを自分の考えとして言葉にするまでの工程をショートカットできない性分なのでしょうね。
加えれば、かつてよりも「言う」よりも「書く」寄りのアウトプットをし続けているので、少々「考える」の内容も変わりつつあるような気がしているのです。
かつてはブログなんて書いてやしませんでしたから、考えていることのアウトプットの方法といえば「言う」の一択でした。
メッセージ、チャットなんかも、テキストで「言う」感じですよね。
メールだと少し「書く」成分が多めになってくる感じでしょうかね。
それが最近は「言う」が激減して「書く」一辺倒になっています。
会話なんて、スーパーのレジでの「おはようございます……。あ、箸いいです……。クレジットカードでお願いします……。はい、ありがとうございま〜す」くらいしかしてませんしね。
誰にも観察されない快適
「言う」が多い生活って、常に誰かから観察されてる環境でもあるんですよね。
近くに人がいて、互いを意識しあってるから、会話が始まるんですもんね。
それはそれで必要なことで、その会話から生まれる楽しみもたくさんあります。
とくに今みたいに人に会わない生活をしていると、たまにコミュニケーションロスを感じることもあります。
僕の場合、自分で望んでこういう環境を作り上げたので、誰に文句言えるわけでもないんですけどね…。
(参考:この暇、苦労の末に作ったものなんだけど…)
でも人の中にいると、どうしても「頑張ろう」って気持ちが湧いてくるんですよね。
これ、ネガティブな意味で言ってます。
なかなか適度な「抜け」がピタっと決まらないのですよ。
平凡な才能しか持たない僕にとって、生活していくために「頑張り」は欠かせないものではあったのですが、どこかしらでそれが目的化してしまってた部分もあったんですよね。
なので、どうしても会話の内容も肩肘張ったものになりがちだったように思うのです。
くだけた雰囲気の打ち上げ会場でも「肩の力が抜けてる人に見られるために、頑張る」みたいな演じ方をしていたんじゃなかったかな?
いや「今からして思えば」ってくらいのものなんですけどね。
とりあえず、なんだかんだと言いながら現在の環境を作ってよかったと思っています。
日常的に絡む人を最小化できているのが、とても快適です。
考えたことを「書く」ほうが「言う」よりも距離が近くなってる
考えたことを「言う」までの距離と、「書く」までの距離みたいなものがあるとすれば、現在の僕は「書く」のほうが近い生活をしています。
前述のように、これは思考そのものに影響を及ぼしてるような気がするんですよね。
「言う」という形でアウトプットをしたものって「座の雰囲気」みたいなものに昇華することもあれば、言いっぱなしになってどこかへ消え去ってしまうこともあります。
一方「書く」というアウトプットをした場合。
たとえば、こうして書いているこのブログ記事にしても、ずっと手元に残り続けるんですよね。
そして、言ったことよりも書いたことのほうが記憶にも残るのです。
あとから「こういう表現もあったな。思ってることとちょっと違うんだよな」と、反芻することが多いように感じるのです。
結果、同じようなことを延々と考え続ける羽目になりますよね…。
僕がこれまでの人生、あまりにも「書く」という行為を敬遠していたので、単に書き慣れしてないだけなのかもしれませんけどね。
そしてこれが、いいことなのか? 悪いことなのか? も判断がつきません。
良く言えば「思考を掘り下げてる」と言えるのでしょうし、反対に「タコツボに入り込んでる」ようにも感じるのです。
……。みたいな話も「考えていること」なんですよね。
こういう話って「言う」機会って、なかなか得られませんよね。
なんか変な感じになりそうですしね。
でも「書く」ならば、さほど抵抗はないのですよ。
「なんだこのブログ、つまんねえな」という方は、ここにたどり着く前に閉じておられるでしょうから、他人の時間を奪ってるわけでもありませんしね。
まあこんな感じで、僕が「考えたこと」を記録する場所としては、ブログはなかなかいいものだと思っています。
とはいえ、早くマスク無しでみんなが集まれるようになって「言う」ができる環境も回復して欲しいものだなあ、とも考えるのです。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。