follow hagi.life

真面目で、いいんじゃないかな

2020.07.09

こんにちは、萩ドットライフ()です。

かつて「真面目だね」って言われることに、いい気がしていませんでした。その言葉の中に「融通が利かない」とか「面白みがない」みたいな意を感じ取っていたからです。それが、世相のせいか、加齢のせいか、全く気にならなくなってきているのです。

柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)

なにかで読んだのか? YouTubeなり、飲み会なりで誰かが言っていたのを小耳にはさんだのか? 知ったそのときは「へえ、そうなんだ。憶えとこ」と思っていたはずのことを、いつの間にか忘れてることってありますよね。

「一度聞いたら胸に刻まれ、生涯忘れることなどない」というほど衝撃的でもなく、「ふ〜ん」ってそのまま流れていって忘れてしまうほど軽いわけでもなくて、そのときだけほんの少しの引っ掛かりを感じる知識とか考え方、いっぱいありますよね。

そしてまた、ひょんなことから思い出して「そうそう、これこれ。前にも聞いて『へえ』って思ったんだよ」と、再認識したりね。

宋時代の詩人、蘇東坡は春の景色を「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」と詠じています。花は色とりどりに咲きほこり、自然の営みにすべてをゆだね、一瞬一瞬をあるがままに生きています。その草や樹木の姿に、限りない生命の息吹を感じ取り、「真の面目」と賛嘆しているのです。
出典:法話「柳は緑、花は紅-あるがままの姿に徹し生きる-」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト(2020年7月9日現在)

この「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」が、ちまたで良く言われる「真面目(まじめ)」の語源なのだそうですよ。

いつ頃かよく憶えていませんが、この話を聞いたことがきっかけで僕は「真面目(まじめ)」という言葉に対する好感が増したのです。

そもそも「まじめ」って、さほど悪い意味を持つ言葉ではありません。

まじ‐め【真‐面‐目】 の解説
[名・形動]《「まじ」は「まじまじ」の「まじ」と同じか》
1 うそやいいかげんなところがなく、真剣であること。本気であること。また、そのさま。「真面目な顔」「真面目に話をする」
2 真心のあること。誠実であること。また、そのさま。「真面目な人柄」「真面目に暮らす」
出典:真面目(まじめ)の意味 – goo国語辞書(2020年7月9日現在)

でも、かつては「真面目な方なんですね」と言われると、あまりいい気がしなかったのですよ。

なんとなく「面白みがない」とか「融通が利かない」といった意味を含んで、ちょっとした皮肉交じりに使われる言葉のような気がしていたのです。

いわゆる「クソ真面目」という言葉に寄せた使い方をしている人が多いし、当然、言われたほうもそう受け取りがちよね。

バブルのころ、真面目はダサかった

繰り返しますが「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」とは、柳は緑だし、花には紅の色が付く。それが自然なことだし、それぞれの個性がちゃんと発揮されてるよね、という意味なのです。

真面目と書いて「しんめんもく」と読むのらしいのですが、現代で使われている「真面目(まじめ)」とはかなり言葉の印象が違っていますよね。

いま50代半ばの僕は、これまでに「自分らしく生きましょう」とか「自分が望むように振る舞いましょう」みたいな言葉を数え切れないくらい見聞きしてきましたし、いろんな人から言われてきました。

そういうことを指して「真面目(=真の面目)」と言っていたのですよね。

なんかこう、かなり「まじめ」という言葉に対する印象が変わりませんか?
この由来を知って以来、僕は「真面目だね」と皮肉交じりに言われても「はいはい、ありがとありがと」と、テキトーに受け流せるようになりました。

と同時に「もしかして、他にも元々の意味と、いま使ってる意味が違う言葉もあるのかもな…」と考えるきっかけにもなりました。
「あれもそうだし、これもそうだよ」みたいなのは、パッと浮かびませんが…。

僕が学生のころから社会人駆け出しくらいにかけて、やたら人を「暗い/明るい」で評価していた時代がありました。
1980年代後半から90年代前半くらいまでの、いわゆる「バブル期」と重なってますね。

「マル金・マルビ」なんて言葉もバズりましたね。
金持ちっぽい行動様式や持ち物や振る舞い方と、貧乏人っぽいそれを対比させて、ちょっと優越感に浸ったり、卑下して笑いを取ったりするようなコンテンツですね。

そういう世相の中「真面目(まじめ)」は、「暗いチーム」にカテゴライズされていました。
有り体にいえば、ダサかったのです。
とにかく軽佻浮薄な雰囲気をヨシとしていた時代なのですから。

運動部に所属していた僕は、友達からなんらかのイベントに誘われても「ダメだよリーグ戦中だもん」とか「9時の点呼までに帰らなきゃだから」などと断らざるを得ない場面がよくあったのです。

当然「真面目だね」と言われ、だんだんと誘いが減り、「明るい」サイドの人々と疎遠になっていくことになります…。

真面目で、いいのです

その後、淡々と会社員を続けたあとに、フリーランスになり、今こうして無職になっているワケですが、結局はなんだかんだ言いながら「真面目」であることが評価される世の中だったなあ、と思っています。

「まじめ」でも「しんめんもく」でも、どちらともです。

ちゃんと仕事と向き合えば、「真剣であること」「本気であること」「真心のあること」「誠実であること」。つまり真面目(=まじめ)であることが求められるに決まっているのです。

ちゃんと人生を楽しもうと思えば、「自然に任せよう」「自分らしさに委ねよう」と真面目(しんめんもく)を意識することで、いろんなことがしっくりくるのです。

after コロナだとか、with コロナだとか、地方の時代だとか、人口減少社会だとか。いろいろと社会が変容しつつある時代だからなのか? それとも単に僕がオッサンになったからなのか?

「なんだかんだ言いつつ、真面目が一番なんじゃないの?」などと思いつつ、過去を振り返ることが多いのです。「たぶん真面目って価値は、これからも評価され続けるぞ」と、どこかしらで考えているのかもしれません。

「クソ真面目」などと、真剣に何かと向き合ってる人や、頑張ってる人のことを揶揄したりせずに、みんなが本来通りのポジティブな言葉として「真面目」という言葉を使う様になるといいと思っています。

そして、「真面目」という言葉を使うたびに、その語源は「柳は緑、花は紅、真面目(しんめんもく)」であることを思い出しては、春の穏やかな心地よさとか、なんらかの希望に向かっていく感じを
頭の中に思い描くことができればいいな、などと思っているのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。