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あの世へお金は持っていけないんだっけ?

2021.02.07

こんにちは、萩ドットライフ()です。

僕は自分の命が尽きるときに、まとまったお金を残しておきたい派です。「あの世へお金は持っていけない」とばかりに、散財してしまうことに反対なのです。タネ銭として運用し「贅沢さえしなければ、生きていける」程度の状態を続けていたいのです。

「あの世へお金は持っていけない」って言いますよね

昔よく周囲の大人たちが「あの世へお金は持っていけない」みたいな話をしていたような気がします。
いくらたくさんのお金を持っていても、死んでしまったら使えないので、多額のお金を残して死ぬやつなんて馬鹿だって意味ですよね。

ただ、僕の周囲でそんなことを言う人っていないんですよね、なんでだろ。

みんな、あの世へ持っていくもなにも、そもそも多額のお金なんて手元になくて、そんなこと考えたこともないからなのか?
それとも僕の周囲にいる人は、同じような考え方をしている人が多いからなのか?

もしかすると、単純に何年か前の流行り言葉みたいなものだったのかもしれませんね。

それはさておき、僕は自分の命が尽きるときに、まとまったお金が残っていて欲しい派です。

とくに誰かに相続させたいわけじゃありません。
自分の安心のために、そうしたいのです。

そもそも、お金のことを「使ってなんぼ」とは思っていないのです。
さほど物欲があるわけでもないし、消費によってステータスを補強しようという欲求もありませんしね。

お金じゃないんだよ。「タネ銭」なんだよ

毎月、月初に「00年00月末現在の金融資産の保有状況」という記事を公開しているように、僕はコツコツと世界株式にインデックス投資を続けています。

2020年2月から3月にかけての大暴落以降、世界各国がこぞって金融緩和を続けている最中なので、株価も上昇中。なかなか穏やかな毎日を過ごすことができています。
当然、毎日のように生活費を使い続けています。
しかも僕は無職なので、労働による収入が月間数万円しかありません。
(参考:セミリタイアの「セミ」のところ

なので現金は減っていきますが、資産は増え続けているのです。
こんな状態がずっと続くとは思っていませんけどね…。

僕にとってお金は、消費するためのツールじゃないのですよ。
俗にいう「タネ銭」なのです。

お金を運用してお金を生ませておいて、手元に置いている生活資金がなくなったら、運用中の資産の増えた分で生活するか、それでも足りなければ、計画的に取り崩し運用をする予定なのです。

たとえば、5,000万円の金融資産があったとして、それを4%の利回りで運用すれば、毎年200万円の不労所得が得られます。
僕は、長らく国民年金しか納めていませんでしたので、月額8万円程度の年金しか受給できません。

でも、その2つを併せて年間300万円程度あれば、十分生活できるはずなのですよ。
タネ銭は毀損しないはずなのです。

以前「4,000万円持っていて年利4.4%で運用する。毎月20万円ずつ取り崩せば、30年後にゼロになる」という計算をしてみたこともあります。
(参考:セミリタイアと資産運用

お金の心配しながら死んでいくって、不幸でしょ

「あの世へお金は持っていけない」を真に受けて、いっぱい消費するような生活をすると、どんな未来が訪れるのでしょうね?

誰も自分が死ぬ時期はわかりませんし、最後の最後まで正気でいられるかどうかもわかりません。

僕が恐れているのは、正気を保ったまま、想像をはるかに超えて長生きしてしまった場合なのです。
「100歳まで生きようとしてるのか、厚かましいな」ではないのです。
「100歳まで生きてしまったら、どうしよう」なのです。

「死んでしまったら、もうお金は使えないのだから」と散財した挙げ句、身体も動かないし、知的生産力も失っているのに、手持ちの資金が尽きるってものすごくイヤですよね。

「そうなったら、そうなったときのこと」「なるようになるさ」と無頼ぶってみたところで、何の解決策にもならないのです。

最後まで自由に生きたいのならば、この辺の仕掛けは念入りに組みてるべきだと思っているのです。
僕は、死ぬ直前まで、お金の心配をしたくないのです。

前項で試算してみたように、毎年の運用益が200万円、年金の受給が100万円、併せて300万円程度を生活資金に当てられるとすれば、贅沢はできないにしろ「とりあえず生きていける」という精神的余裕は計り知れません。

これだけの金額があれば、僕はたぶん余らせてしまいます…。

生活レベルなんて、そこそこでいいのです

これから自分がどのように変わっていくのか分かりませんが、50代後半のいま、さほど消費欲があるわけでもなく、グルメでもなく、お金の使いどころのない人間に仕上がっているようです。

強いて言えば、家電やらデジタルデバイスみたいなガジェット類を買うとき「安い方でいいや」という選び方をするのはちょっとイヤだなあ、と思うくらいです。
ものを買うよりも、学習をしたり、庭をいじったり、何かを作るほうが好きなのです。

だから「この先も、大したお金の使い方なんかしないだろうな」と思っています。

たぶん僕自身が「大した人」じゃないし、そう思われようとしていないからなのでしょうね。
大した人に思われたがると、お金が消費に向かいがちになりますからね。

生活レベルなんて、そこそこでいいなあと思っています。
たぶん、今ぐらいが一番しっくりきています。

これから先、ずっと働かずに生きていくかどうかはまだ決めていません。

このブログでも、いっとき「生産的な趣味」という言葉を用いて、セミリタイアと労働との距離感についていろいろと考えたことを書き連ねていました。
(参考:定期的に「生産的な趣味」について考える

とりあえず現時点で「もう生活のために働かなくてもよさそう」だということがわかりました。
完全に労働と趣味を同列に考えられるようになったので、ものすごく精神的に安心できています。

あとは、この生活レベルの中で、充実感を得るポイントを探し続けることですね。
そうすれば「贅沢さえしなければ、生きていける」状態を続けることができるのです。

「あの世へお金を持っていく」ってことは、死ぬ直前までお金の心配をしなくていい状態を作ることなんじゃないかな? と思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。