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自分のオリジナルって、なんなんでしょうね?

2021.01.12

こんにちは、萩ドットライフ()です。

ものを作る人って、定期的にオリジナル論にハマりますよね。できあがるものすべてが既視感のあるものばかりで「自分のオリジナルっていったいなんなんだ?」と苦悩するのです。無職になったいまでも考え続けてますよ、少しは楽になりましたけどね。

あれ? これどっかで聞いたやつ

こうして毎朝ブログを書いています。
目が覚めて、少しベッドの上でグズグズしながら「今日のブログは何書こう」と考え、何かしらを思いついてから作業部屋に移動し、PCをスリープから解除し、思いつくままに書き進めることが多いです。

あとからテーマを変えることもあれば、2・3行書いたらピタッと筆が止まり、テーマをまるっきり考え直すこともあります。
一気に書き終わることもあれば、途中で朝ランに出かけることもあります。

そのへんはテキトーなのです。

最近よく思うのは、自分が思いついたことを書いているようでいて「あれ? これって以前どこかで聞いたことがある、もしくは読んだことがあることだな」ってことなのですよ。

僕は、いまのように無職になる前はフリーランスのデザイナーをしていたのですが、そのころからこうした感覚はたびたび味わっていました。

自分としては何かを模倣するつもりなどないのですよ。
あとから「これって○○みたいだね」って言われるの、結構恥ずかしかったりしますからね。

ときどき、クライアントから「これみたいな感じに仕上げてください」って言われることもありますが、そういう場合でも、なんとなくクライアントが希望したテイストを残しながら、自分なりのオリジナリティを出そうとします。

「こっちのほうが、なんとなく感じよくありません?」なんて言いながら。

でもそうやって、どうにかして「オリジナリティのあるものを」と思いながら作業していても、どうしても既視感のあるものに仕上がっちゃうんですよね…。

ちょっといいことを思い付いたとしても、大抵の場合、どこかで誰かがやっちゃってるんですよ。
かつて、それを見ていた僕が「ヨシ、いいこと思いついた」って、記憶から引っ張り出しちゃってたりね。

本当の意味での「オリジナル」ってなかなか作ることができないものなのですよ。

もし、これまでの僕の仕事の中にいくつかオリジナルがあったとしても、たぶん僕は「これはオレのオリジナルだよ」って気付いてないはずです。
だって「オリジナルかも」って検証しはじめた時点で「でも、前にどっかで見たことあるんだよなあ」って思い始めるはずですからね。

「前に、どっか」は「数分前に、眼の前のモニタ」なのかもしれませんけどね…。

そんなことを言い始めると「自分のオリジナルって何?」ってことになるのですが、ものを作ったり、文章を書いたりしている人はこのへんに悩みながら日々暮らしてる人が多いんじゃないでしょうかね?

自分が発してるんだから、自分のオリジナル

僕は「自分は、これまでに見てきたもの、聞いてきたもの、触れてきたものからできている」と思っています。

なので、こうしてブログを書きながら「これって、昔どこかで読んだことある気がするな」なんてことを思っても、そのまま気にすることなくその文章を残すことにしています。

別に「この言い回しは、僕のオリジナルです」と主張するわけでもなく、こういう場面でしっくりくる言葉ならば、いろんな人が何度でも繰り返せばいいと思うのです。

さすがに「これは、いろんなところで何度も見聞きした気がするぞ」と感じるものに関しては、ググって出典を探してはみますけどね。

おそらく、よっぱどの奇跡でも起こらない限り「この表現の初出(=オリジナル)は、僕の成果物です」ってことなんてありえないと思うんですよね。

そんなふうに考えていくと、僕にとってのオリジナルなんて「僕であること」くらいなものだと思うのですよ。

おそらく、これまで何万人? 何億人? の方々が「自分のオリジナルって、なんなんだろう?」と考えてきたはずですし、「自分が自分であることくらいしか残ってないかもね」なんてことを思いついてるんでしょうけどね。

でも、この「萩ドットライフ」というブログの中で「2021年01月12日の朝に」、「自分のオリジナルって、なんなんでしょうね?」というテーマでいろいろ考えながら書いた記事はこれだけなのです。

検索結果が「1」になるのです。

「だから、ここに書かれている文章はオリジナル」だと主張したいわけではありません。
いま僕の頭の中に浮かんでいる情景こそが「オリジナル」なのだろうと思うのです。

この情景から、表現手法としてのオリジナルを得られるかどうかは、別の次元だろうと思うのです。

いまの自分が発せられるもの

ブログを開設して2年以上が経過しています。
書いている途中で、以前に書いたことを繰り返して書いていることに気づいたりもします。

そんなときは、過去記事をググって参照リンクを付けたりしていますが「前にも書いてるから、この記事を投稿するのはやめよう」とは考えていません。

同じテーマでも、以前それについて考えていた僕と、再度考え始めた僕との間には、確実に変化がありますからね。
当然、書く内容や表現の仕方もちょっと変わっているのです。

場合によっては、まったく逆のことを言っていることだってあります。

これがたとえば、僕が文筆を生業としていて、どこかの媒体に文章を提供していた場合なんかは「言説は一貫させなきゃ」とか「考え方に変化があったのならば、補足しなきゃ」なんてことを考えるんでしょうが、これは僕が勝手に書いているブログなのです。

そのとき自分が思ったことをそのままテキストにすれば、それで構わないと思っています。

この辺が、以前接していたデザインとの違いなんですよね。
その頃は「自分」よりも「ターゲット」だとか「クライアントの嗜好」みたいなものを優先しながら最適解を求めていましたからね。

僕はデザイナーとして「焼きが回った」から、やめて無職になろうと決断しました。
このブログの中で最初にこの表現を使ったのは『「プロ失格」を許容して、残りの人生を再構築する』でした。

実際に他人との会話の中で「いや、もう僕も焼きが回っちゃいましたからね」みたいな言葉を口にしたのは、この記事を投稿した後だったと記憶しています。

自分が自分に使うには、ちょっと抵抗のある表現なのです。

でも、こうして「いまの自分が発せられるもの」を作っているぶんには「焼きが回った」も「枯れた」もないのですよ。
おそらく僕は、自分に焼きが回ったことを感じて、無職になることを選んだ後でしか作れないものを作っているはずなのです。

「クライアントの担当者、気に入ってくれるかなあ」とか「公開後、うまくコンバージョン得られるかなあ」とか一切気にせずに取り組めるものがあるだけで、少しは気が楽になっています。

自分が作って、自分の気を楽にできるものなんて他のどこにもありゃしないので、これが「オリジナル」っちゃあオリジナルなんだろうな、と考えるのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。