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知的生産でメシ食いたいんなら、まずググれ

2018.12.30

最終更新日:2019年04月30日

こんにちは、萩ドットライフ()です。

知的成果物をアウトプットすることって、自分でたくさんの「情報」を拾い集めて、その断片を紡ぎ合わせて、信念や欲望などの感情にこしらえ直して、行動を生み出すことなのだろうと思うのですよ。ひとこと自分の主観を発信するだけでもいいのです。

まず、自分で情報を拾う

「それ、ググればいっぱい出てきますよ」みたいな情報って、すでに無価値になっていると思うのですよ。
現在50代半ばの僕が、社会人になったころ、まだインターネットがありませんでしたから「物知り博士」は、貴重な存在として尊敬されていたのです。歴史上のお話ですね…。

今は、情報を「知っている」ことよりも「加工できること」「行動に変換できること」の方がはるかに重要になってきているのです。

しかし、だからこそ「ググれ」なのだろうと思っています。

「教えてくださいよぉ」とか「どんな本を読めばいいんです?」みたいなことを、他人に聞く前に、情報の断片を拾い集める作業を自分でできないと、どうしようもないと思うのですよ。
情報を拾い集める過程で、物事の輪郭が見えてきたり、さらに深い情報を拾いにいくためのヒントが見つかったりすると思うのです。

特に、知的生産を生業にしていきたい人にとっては、他人に訊ねるよりもまず先に、話の断片からヒントを得て情報を掴むというスキルを身につけることは、必須要件だろうと思っているのです。

活用できる「知恵」に加工して発信する

何かが話題になったときに「そんなこと、自分は以前から知っていた」みたいなことをいう人がいますね。
おそらく、それはウソではなくて「情報」として持っておられたのだろうとは思います。

ただ今、「知っていた」に価値はないのですよね。

「知恵」として加工した上で、活用できないと価値にはならないのですよ。
「情報」の断片を自分の考え方で紡ぎ合わせて、信念や欲望にこしらえ直して、行動を生み出すことができなければ、ただのコレクションに過ぎないのですよね。

行動に至る「知恵」におよばなかったとしても、自分のフィルターを通した上で「オレ、コレ、スキ」という主観の発信だけでもいいのです。
なんらかのアウトプットに繋げないと、手元の情報は無駄になってしまうと思うのです。

僕が今、こうして書いているブログも、それに近い行為だと思っているのですよ。
「なんとなく知っていた」「なんとなく考えていた」ことはたくさんあるのですが、ことごとく、自分の言葉に変換していなかったし、自分の行動に影響を与えていた情報も、きちんと認識できていなかったのですよ。

それをブログを書くことによって言語化し、自分のしてきたことをもう一度、思い出し整理し、これから行動しようとしていることの背景を洗い出すことで、やっと棚卸しが始まったように感じています。

知的生産って「アタマよさそうなこと」じゃないです

「知的生産」って言っちゃうと、なんか学問に携わったり、アタマの良さそうなことをいうことみたいな印象ありますよね。
僕も無意識のうちに、難しそうな言葉を選んでこの記事書いてて、平易な言葉に書き直したりしてますもん。

でも「知的」ってそういうことではなくて、情報をもっと役に立つように、好き勝手に変換できる工程なのだと理解すれば、少しは納得がいくのかもしれません。

今の眼の前にある隙間を見つけて、そこを埋めたり、いびつな考え方の外観を、上手に盛り付けるためのる材料として、情報を加工して使うこと、みたいなイメージを持っているのです。

「知的生産でメシを食う」とは、そうした成果物をアウトプットすることを生業にすることですね。
僕はWebデザイナーなので、知的生産でメシを食ってるという認識があります。
他にも、tweetしたり、ブログ記事を書いたり、絵を描いたり、曲を作ったり、あるいは近くの人に話しかけるといったことであっても、それによって収益を上げていれば、知的生産でメシを食っている人なのだろうと思います。

僕自身の内面について「知的生産」を解釈するとすれば、僕は自身の才能なんて、よく理解できていないし、これから先、どれほどの学習や努力ができるかも想像できないのですよ。
そんなものに期待するよりも、今のサイズの自分のカタチをほんのちょっと整えてくれるようなものを「知的」に「生産」したいと考えているのです。

ちょっとずつ自分が変わっていくよ

こうして、ブログ記事を書きながら、自分の「やってきたこと」「これからやろうとしていること」「考えていること」などを認識し直しつつ、言葉を組み立てているのですが、常にいくつかのキーワードをリストアップしながらググり続けています。
延々とインプット作業をし続けているのですね。

その過程で連想ゲームみたいに、これまで知らなかったキーワードがザクザク増えるけど、深く掘り込んだり、一旦無視したりしながら進んでいくと、なんとなく今自分が整理しようとしている問題の解像度が上がるし、周辺知識も増えていくのですよ。

そうすると、自分の考え方が少しずつ変わっていくのですね。

おそらく、人が大きく変われないのは、無意識のうちに過去と現在にストーリーの連続性を求めているからなのだろうと思っています。
それを「手元の情報を増やし、質を変え」「知恵の精度を上げる」ことで、自分自身の行動を変えることが、それほど難しくなくなっていくのですよ。

また、ググり続ける(=インプット作業)という行為において、

  • 今持っている情報の補強
  • 今持っている情報を陳腐化して次のフェーズに進むための動機づけ

という、二つの効果を期待しているのですよね。
ザックリとではありますが。

つまり、「今やろうとしていること」について調べ物をしているのに、同時に「別のこと始めたいな〜」と思う羽目になるのですよ。
ていうか、ずっと繰り返してますし、行動に影響を与えてくるのです。

こうして、だんだんと自分が変わっていくのですよね。

冒頭で「ググって得られる情報なんて無価値だ」と書きましたが、それらは断片として無価値なのであって、自分の意思で拾い集め方を工夫し、紡ぎ合わせると知的成果物になりますし、自分自身の行動に変化をもたらしてくれるのですよ。

だから「まずググれ」なのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。