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テキトーな感じで、いいよね?

2020.01.28

こんにちは、萩ドットライフ()です。

無職になってからこっち。よくわからないものを「よくわからないもの」としていったん受け入れてみる、というグズグズとした、テキトーな処理をすることが増えてきたように思います。あまり好まれる態度ではないのでしょうが、これがラクなのです。

わからないものを、わかならいものとして受け入れる

そもそも人間には「やるかやらないか」みたいに白黒きっちりつけたがる部分と、「Aのような気もするし、Bのような気もする。というか、どっちともアリかな?」みたいにどうにも自分の考えをはっきりできずに放置している部分が混ざり合っているように思うのです。

世の中なんて僕のわからないことだらけで、わからないものに対して、どうにか折り合いをつけて「わかったふう」に仕立てようとしたり、「なんだ、こんなよくわからないもの」と否定してみたくなったりするのです。

それでも、どうにもこうにもならなければ「なんかよくわからないもの」として、そのまま受け入れることになるのですよ。

ほっとけばそのうち、よくわからないもの同士が結合したりして、いったん否定したものが「あ、これはいいじゃないか」というものに変わったりするのです。

ただ何かにつけて、態度保留という状態はあまり気持ちのいいものではありません。

自分の考えの中に、わからないものを「わからないもの」として置きっぱなしにしているとなんだかモヤモヤしてしまうし、それが何かを決めるミーティングの途中ならば「はっきり態度を決めろよ」と詰められそうな気がしてしまいますよね。

それでも、本人がバランスが取れていれば、特に問題にするほどのこともないんですけどね。

僕は、無職になってかれこれ4ヶ月が経過しました。

生活のリズムは現役時代のルーティーンを守り続けているし、仕事に関するストレスから解放されているのですが、どうもこの「わからないものを、わかならいものとして受け入れる」ということが増えてきているような気がするのです。

以前と同じ生活リズムである必要ある?

長期休養なので、自分に対してとくに何も義務付けしているわけではありませんが、気付くと生活がルーティーン化してるんですよね。

先日投稿した「冴えないときの、気晴らしに…」で触れたように本来は、無職なのだからランニングするのが早朝である必要などないのです。

同じように、ランチを食べる時間が昼の12時である必要はないし、13時になったら「おっ、昼休みも終わりだな」なんて思う必要もないのです。

それ以前に、僕は20年以上フリーランスだったので、そもそも周囲と時間を合わせて生活する必要などなかったはずなのですよ。

実際、40代後半でパニック障害を発症するまでは、ムチャクチャな生活をしていました。

でもそれがきっかけとなり、いろいろと考え方を改めるようになり、結局サラリーマン時間に合わせて生活するのが一番快適だということになっていたのです。
(参考:50代フリーランスが振り返る「やっといてよかった」「やっとけばよかった」

ルーティーンの効能については、いろんなところでいろんな人が話題にしているように、自分の中のちょっとした変化に気付くことができたり、常に同じ状態に整えることができたりするので、良いことだということになっています。

特に年齢を重ねると、健康が保たれていないと、てきめんアタマが動かなくなってしまいます。
加えて、フリーランスの場合は、体調を崩せば周囲に迷惑をかけるし、自分の収入にも直結しますから、パフォーマンス管理にルーティーンを持ち込むことは理にかなっていたのだと思います。

このルーティーンが無職になっても、まったく抜けないのです。

相変わらず、起床したらPCをスリープ解除し、メールチェックしながらSPAMメールを削除。
せいぜい異なるのは、仕事関係のメールが(ほぼ)皆無になったことくらいであることと、今はこうしてブログを書くという、新しいルーティーンが追加されていることくらいです。

他にも、お昼ごはんを調達に行くお店の順番とか、入浴だったり、家事だったり、寝るときの準備だったり、今まで気づかなかったルーティーンが無職になったことをきっかけに「あ、これもそうだ」みたいに次々と見つかってきています。

生活の中にルーティーンが必要であることは、なんとなくわかる。
でも、無職になる前と後が同じである理由は、よくわかならいのです。

現に、ランニングを「走りたいと思ったときに走るってことにしよう」が、ちょっと快適なので「あ、これもルーティーンだな」と気づいたものを、意図的にズラしてみようかな? などと思っているのです。

深く考えず、テキトーな感じで

生活の中の行動面のみならず、いろいろと考えていることの中にも「わからないものを、わかならいものとして受け入れる」ということが増えてきています。

たぶん、仕事に追われていたときには認識できずに捨てていたものを、暇で退屈になった今、どんどん拾い上げているんでしょうね。

このブログに書いたことの中にも散見できるのですが、いろいろ考えながら書き残して、いつの間にかよくわかなくなって行動を保留しているものが多々あるのです。

それに加えて、以前投稿した「新しい感情」の中で、「心の熾火(おきび)」という言葉で表現した、やろうと決めたけれども行動に至らなかったものや、行動したけれども上手くできなかったことを再浮上させてきているのです。

これって、過去の「保留事案」なんですよね…。
わからないものを、わかならいものとして受け入れっぱなしになっている案件たちなのです。

気づけば「やるやる言いながら、ちっとも前に進まないヤツ」に成り果ててしまっているのです。

とはいえ、一方では「バランスを欠いてるほどでもないしな」とか「休養中なんだもん、とりあえず受け入れるだけ受け入れとくか」などという気持ちでいます。

「人間、暇になるとろくなこと考えないな」なのか? 「たまには暇を作ってじっくりと自分と向き合う時間って大切だよ」なのか?
よくわかりませんが、とりあえず「わかならいもの」として向かい合い続けてみようと思います。

ま、そのへんはテキトーです。

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