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感情が理性をサポートしてくれる

2020.02.28

こんにちは、萩ドットライフ()です。

最善の判断をするためには理性的であるべきであって、感情に流されてはいけないと思っていました。でも過去を思い起こしてみると、どうやら感情が理性を後押ししてくれているようなのです。うまく組み合わせて物事を考えたほうが良さそうなのです。

感情的に判断することは誤りなのか?

物事を判断するとき「ここは決して感情に流されずに、落ち着いて理性的に考えよう」と考えています。

感情が高ぶっているときはちゃんとした判断ができない状態になっていて、誤った判断をしてしまうような気がしているのです。

こういう「感情が理性の邪魔になる説」って昔から言われていて、幾度か読んだり聞いたりした記憶がありますので、その影響を受けているのだろうと思います。

でも、過去の自分の振る舞いを思い出してみると、そうなっていないこと、つまり物事の判断に感情が入り込んでいることが多いのです。

最近でいうと、つい先日、山口県萩市の古民家を内見に行ったその日に「これ買います」と決めました。

当然、事前にハザードマップやら周辺環境、徒歩・自転車・車・公共交通機関でのアクセスなどを調べたり、実際に見なければわからない土地・建物のOKポイント、NGポイントを整理した上で内見に臨んだのですが、決断のあと押しをしてくれたのは結局、感情だったような気がします。
(参考:他人の趣味と向き合う ― 萩市の古民家を買うことにしました

「さっさと住処を決めて、自分の環境を変えたい」
「ずっとブログで買う買う書いてるけど、一向に進まないじゃん」
「これ見送ったら、また次の物件でも同じことになるよ」

みたいなことを考えながら「ヨシ決めた。腹を括ろう」という気になったのです。

決して「感情的な決断」をしたわけではありませんが「感情が決断のスイッチを入れてくれた」ことは確かなのです。

過去の自分の行動をたどってみると、セミリタイアするために「以降、新規案件の受注を停止します」と宣言したときも、東京・清澄白河のマンションを購入することに決めたときも、フリーランスになったときも、進学先を決めたとき、好きな人に告白したとき、車を買ったとき、身の丈に合わない値段の時計を買ったとき、デザイナーになろうと決めたとき…、何かを決断するときにはいつも、この感覚があったように思うのです。

「なぜオレはこう決めたのか」という理屈は、むしろ行動を起こしてから後付で組み立てていたようにすら感じています。

そう考えると「判断は理性的に」と考えていただけで、実際の振る舞いはそうでもなかったようです。
そうじゃないからこそ「理性的に、理性的に」と思い続けていたのかもしれません。

そもそも感情を排除するなんて、そんなに簡単にできるわけありませんよね…。

感情は理性的な思考を助けてくれるらしい

ソマティック・マーカー仮説というものがあります。
ずっと前から知ってたわけではなくて、つい最近いろいろググっている最中に見つけ出した説です。

それがきっかけで「そういえばオレも」と思いついて、この記事を書いているのです。

簡単に言うと「感情は理性的な思考を邪魔するわけじゃないよ。むしろ助けてくれてるよ」ということらしいのですよ。

ソマティック・マーカー仮説とは、神経学者アントニオ・ダマシオ(1994,2005)が主張する説で、外部からある情報を得ることで呼び起こされる身体的感情(心臓がドキドキしたり、口が渇いたりする)が、前頭葉の腹内側部に影響を与えて「よい/わるい」というふるいをかけて、意思決定を効率的にするのではないかという仮説。この仮説にしたがうと、理性的判断には感情を排して取り組むべきだという従来の「常識」に反して、理性的判断に感情的要素はむしろ効率的に働くことになる。

ダマシオ(2005:x-xi)の簡潔で要を得た説明によると「感情(=情緒=情動,emotion)は理性=知性あるいは理[ことわり](reason)のループの中にあり、一般に考えられているように感情は推論のプロセス(reasoning process)を有無を言わさず邪魔するというよりも、むしろ助けているかも知れない」という仮説である。
出展:ソマティック・マーカー仮説(2020年02月28日現在)

すごく腑に落ちました。

前項で述べたように、確か僕はにそうしているのです。
決断したり、判断したりすることなんて、大小織り交ぜながら日々繰り返していることですよね。

感情で勢いでも付けないと、いちいち億劫でやってられないのですよ。

これからは「ものを決めるときは理性的に」という考え方をちょっとユルめようと思います。
なんたって「ソマティック・マーカー仮説」ですからね。

感情と理性の共存

こういう学者さんの説に触れると「そういえば自分も」とか「言われてみりゃ確かに」みたいな感じで、連想ゲーム的に自分の考えが整理されるのが気持ちいいですよね。

なんとなく、心のどこかで「あまり理性的になりすぎてると、いつまでも結論に辿り付けないんじゃない?」なんて思っていたことが「ほれみろ、感情がサポートしてくれるんだよ」って、ちょっと目の前が開けた感じになりますしね。

言われれみれば、なにかしらの物事に触れたとき「これのこと、もっと知りたい」とか「これはオレには不要だな」みたいな判断をするときって、何かしらの感情とセットになってるような気もするんですよね。

もちろん、理性的に思考し続けることを否定しているわけではありません。
共存させるべきであり、これまで信じていた「感情に流されるな」という考え方を、ちょっと疑ってみようかな? と思っている程度のことなのです。

世の中には「ファーストインプレッション、だいたい正しい説」というものがありますが、これも何かを判断するときに、感情が上手く作用していることの説明であるように思います。いわゆる「勘」ってやつですね。

そうやって決めた判断って、だいたい間違っていないのですよ。

だれだって最善の判断をしたいと思ってるに決まってます。
でも、それがわかるのってしばらく経ってからですよね。数秒後のこともあれば、数十年後のこともあります。

判断したあと、行動しはじめてから「自分の判断が間違ってなかったことにするために、頑張らなきゃ」って感情が継続すると、結果的に上手くいって「判断が間違ってなかった(=正しかった)」ってことになる確率が高まりますよね。

うん、たしかに感情が理性をサポートしてくれてる感じがしますね。

なにかするときの背中を押してくれる場面だけじゃなくて、逆に嫌な感じがしたり、危険を感じて足を踏みとどまるときにも、このソマティック・マーカー的なものが働いてるような気がします。

これからは物事を決めるとき「理性的でありながらも、湧き上がる感情も大切にする」ことを意識しようと思います。

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