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好奇心を失っちゃダメだなと、しみじみ思う

2020.03.13

こんにちは、萩ドットライフ()です。

好奇心って加齢とともに弱るものなんだな、と思っています。記憶力や筋力などと同様に、好奇心をキープし続けるためにはそれなりのトレーニングが必要な気がするのです。ちょっとしばらく、意図的に未知のものと関わるフェーズを作ろうと思うのです。

集中力を失ったのは、好奇心が弱ってるからかも

みんながそうなのかどうかはわからないけれど、僕は年々、同じことを長時間できなくなってきているのですよ。オッサンだからだと思います。

それを僕は「集中力がなくなってきてる」と感じていました。

過去にも「集中できなくなった。こうしてひとつずつピースを失っていくのです」という記事を投稿していますが、以前は少々過集中気味で、電話が鳴っていても「出る」という行動につながらなかったり、いつも座ってる作業台から4m程度先にあるトイレに間に合わなかったり、ちょっとしたバグを抱えていたのですが、50歳を境にして、まったく逆に振れはじめてきてるのですよ。

突然、飽きっぽくなったわけでもなく、子供のころからそのけはありました。
テレビを30分間続けて観ることができなかったのですよ。

番組に依るんですけどね。
ドラマや映画なら(ものによって)観ていられるけれども、バラエティやニュース、クイズ番組はダメでしたね。

昭和時代、学校での話題は前日のテレビ番組のことが中心だったのですが、僕は観てもいないテレビの話題について、テキトーに合わせていました。

自分のお金でテレビを買ったのは、大学時代の1度きりです。
その14インチブラウン管式テレビが壊れたのを機に、もう20年近く家にテレビがありません。

たぶん、昔っから「ものすごく集中できるもの」と「まったく集中できないもの」の差が激しかったのでしょう。
よくわからないけれど、そういう理解をしています。

それが、加齢とともに「集中できないもの」のほうが増えてきている感じなのです。

先日、公園のベンチに座ってると、小学校低学年くらいの子供が独りで「水切り」をして遊んでいるのですよ。
水切りってご存知ですかね? 水面に石を投げて、石を跳ねさせる遊びですね。

その子は、さほど大きくもない川で延々と水切りをやっているのです。

ずっと観ていると、大きい石、小さい石、平べったい石、丸い石を各種集めて来ていろいろと試しているようです。

僕がベンチに座って彼を観ていたのは10分くらいのものだったのですが、僕が来る前からやっていたし、僕がいなくなっても続けていたようでした。

「オレも子供の頃、こんなことやって遊んでたな」という記憶が蘇りました。

50歳を超えた今の僕からしてみれば、いったい何が面白いのかさっぱりわからないのですが、子供の頃にはそれなりの楽しさを感じてたはずなんですよね。

「石の形状と跳ね方の関係」とか「投石フォームの影響」とか、大人になった今、その楽しさについて、いろいろと言語化してみることはできるのですが、公園で見かけた子供も、子供時代の僕もそんなことなんて考えてやしなかったんですよね。

ただ単純に面白かったんですよ。
こういうのが本来の「好奇心」なんだろうな、と感じたのです。

面倒くさいはNG

どこかに「面倒くさい」と「やってみよう」の境目がありそうなんですよね。

たとえば前項の「水切り」ならば、僕が最後にやったのは中学生くらいだったんじゃなかったでしょうかね?
高校生くらいになると、そんな子供じみたことをやるのがカッコ悪く感じるようになってしまうのですよ。「やってみよう」と思わなくなるんですよね。

大人になってからも、友人知人の子供との遊びの中でやってみたことはありますが、それは「子供って、こういうの好きだろ?」という大人心からの行動です。

「好奇心」からの行動じゃありませんね…。

ゲームや読書や料理なんかもそうなのですよ。
加齢とともに、どんどん何かを面白がるという能力を失っていってるのです。

たぶん、筋力や記憶力なんかと同じで「好奇心」も意識的に使っていかないとダメになる機能なんじゃないでしょうかね?

僕くらいの年齢になると、自分の親が認知症を発症していたりして「オレもいつかは…」と感じる機会が増えてきます。

実際に、人や物の名前がすぐに出てこないことが増えてきますしね。
「もしかして、これってボケの入り口か?」みたいな気になって、否定したいがために、一生懸命思い出そうとしますよね。

ジョギングや筋トレに励む人が多いのも、両親世代が足腰衰えて二階への上り下りや近所への買い物にも難渋している姿を目の当たりにすることと無縁ではないと思うのです。

ところが「好奇心」に関しては、みんな気にすることがないんじゃありませんか?
僕は気づいたとき、ワリと強めに「ハッ」としました。

ちょっと意識的に、面白いことに首を突っ込もうと思っています。
たぶん「好奇心」もキープするためには、それなりの負荷をかけてトレーニングし続ける必要があるような気がしているのです。

しばらくは「面倒くさい」をNGワードにしようと思います。

子供が遊ぶときのような好奇心を

「オレ、好奇心を失いつつある」と感じて以降、といってもここ数日ですが、自分が関心を持ってることを探るようなことを繰り返しています。

芸樹に興味は? ある。音楽は? ちょっとある。映画は? ある。料理は? ない。ギャンブルは? ない。

みたいなことを延々とやる時間を、意図的に作っています。
せいぜい2・3分程度しか続かないんですけどね…。

興味があることに関しては、すでに生活の中に組み込まれていたり、自分では何もしていなくても、ニュース記事になっていれば気を留めたり、YouTubeで「おすすめ」されれば動画を観たりしているのですよ。

興味がないことが、僕の知らない世界なんですよね。

せっかくいま無職になって、暇で退屈な日々を過ごしているのだし、近々田舎に移住して身辺の環境をガラっと変えようとしているのですから、意図的になんらかのアクションを起こすことをしてみようと思い始めています。

たとえば、以前投稿した「他人の趣味と向き合う ― 萩市の古民家を買うことにしました」という記事で書いたように、田舎で暮らすために購入手続きを進めている家の前オーナーさんが、庭造りが趣味で、庭木や庭石、池などがあるのですよ。

「こんなの要らない、造園業者に頼んで撤去しなきゃな」と思っていたのですが、今は「せっかくだから、ちょっと自分で面倒見てみるか」という気になっています。「ダメならば、そのときに撤去を考えよう」と。

偶然とは言え、興味のなかったものに出会う機会を得たのです。
それをやってみることによって、知見が広まるでしょうし、アタマの中のこれまで使っていなかったところが刺激されるかもしれません。

「場合によってはハマるかもな」という気もしています。

子供の遊びもそんな感じだったように思うのです。

地べたに偶然見つけた穴に水を注いでみた。穴からアリンコがわらわらと出てきた。
「これがアリの巣なんだ」「こっちの穴は? あ、違う種類のアリが出てきた」「捕まえて、図鑑でこいつの名前を調べてみよう」

こんなことを繰り返していて、それが楽しかったのです。

ひとつでも多くのことに触れる機会を増やしてみようと思っています。

セミリタイアしたこと、田舎に移住しようとしていること、そして好奇心を刺激してみたくなってること、すべてが繋がっていて「人生の中での、そういうフェーズなんだろうな」と感じているのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。