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こんなこと、やってる場合じゃない! の「こんなこと」

2020.03.22

こんにちは、萩ドットライフ()です。

無職になって、暇にしているものですから、たまに「もしかして、あのときのアレって、こういうこと?」なんてことに思い至るのですよ。今は「こんなこと、やってる場合じゃない」の「こんなこと」って大切なことだったんじゃないかと考えています。

セミリタイア生活を選んだきっかけでもあります

どんなシチュエーションだったか思い出せないのですが、TVerで観ていた番組の中でタレントさんが「いまこんなこと、やってる場合ちゃうでっ!」とおっしゃっていたのですよ。

そのとき、ちょっとした懐かしさを感じたのですね。

「そういえば、ここのところしばらく『こんなこと、やってる場合じゃない』なんて思ったことがなかったな…」と。

以前はよく、A案件の締切が目の前なのに、フォルダの整理を始めたり。
B案件の修正依頼がジャカスカやって来ているのに、靴磨きをしていたり。

「何やってるんだオレ、こんなこと、やってる場合じゃないだろ」という場面がよくあったはずなのですよ。

古くは、英語の試験勉強しなければならないのに、妙に数学の問題を解きたくなるような現象、きっとあなたにもあると思います。

僕は今、セミリタイア生活中です。

これから先、いっさい仕事をしないと決めているわけではなく、娯楽と仕事の間くらいのユルい労働を構築しようとしているので、死ぬ直前くらいまで「セミリタイア中です」って言い続けることになると思います。
(参考:セミリタイアの定義。仕事は娯楽(=生産的な趣味)

ただ、今の今は、無職になって長期休暇中です。
いったん、何もかもリセットして「ゼロに戻す」フェーズを作っているのです。

過去30年以上にわたって、デザイナーを生業としてきました。

「セミリタイアしよう、いったんこの仕事やめよう」と思ったきっかけは、自分自身で衰えを感じたからなのです。
加齢によるものなのか、職業に飽きを感じたからなのか、よくいう「焼きが回った」ってヤツですね。
(参考:「プロ失格」を許容して、残りの人生を再構築する

「そろそろ焼きが回ってきたな、仕事辞めよっか」と思い始めたころと、「こんなこと、やってる場合じゃない」と感じる場面がなくなったのが、同じくらいの時期だったような気がするのです。

あくまでも「いま思い出してみれば」ですけどね…。

無職になった今、大切なことに気づいています

ずっと気付かなかったことだけれども「こんなこと、やってる場合じゃない」の「こんなこと」って実は大切なことだったのかもしれないのです。

なんとなく「これは、いきなり手を動かさないほうがいいぞ」「いったん手を他の作業に使いつつ、アタマの中で整理したりコネたりしてみよう」と感じているから、別の「こんなこと」をやってしまうのでしょうね。

初めてのものに向き合うための、準備行動みたいなものだったのかもしれません。

それが「焼きが回った」状態になると、自分の引き出しの中にあるワザだけでやり繰りしようとするものだから、そういう必要がなくなっていたのでしょう。

ちょっとした余裕や楽しみを同居させておくことだったり、あえていったん視線をズラしてココロをリセットするルーティーンが、新しいことを考えて、上手く仕事を進めるコツだったんじゃないかな? と、無職になった今ようやく気づいているのです。

今から思えば「こんなこと、やってる場合じゃない」と思いながらも、なかなか「こんなこと」が止めらなくてに手がつかず、少々焦りながら、どうにかこうにか自分を取り戻して仕事に向かっていたくらいのときが一番充実感を得られていたような気がします。

なかなか仕事に手が付かないことに対する後ろめたさを感じつつも、どこかしらで、

「心配しなくても仕事なんて、ちゃんとやるに決まってる」
「でも、やりたいことをやるために仕事してるんでしょ」
「だから今は、好きなことをやるよ」

という、自分自身に対する反発心みたいなものもあって、それがなかなか心地よくて、いい感じで作用してくれていたようなのです。

気付くのが遅かったけど、そんなもんでしょ

こんなこと、現役のデザイナーとして、ガシガシ案件を請けていたころには考えたこともありませんでした。

たぶん、無職になって暇で退屈な毎日を過ごしているから、ちょっとだけ心に余裕が生まれてきてるんでしょうね。

細かい話をすれば、今でも「こんなこと、やってる場合じゃない」と感じることがないわけではありません。

出かける時間が近づいてるのに、トイレ掃除をはじめちゃったり
カップラーメンにお湯を注いだのに、洗濯物を干し始めたり

でも今さらながら、モノを作ったり、新しい知識と向かい合ったり、思考を組み立てなきゃいけない場面で感じる「こんなこと、やってる場合じゃない」の「こんなこと」ってワリと大切なものなんだな、と認識できると、これから先ちょっとだけモノの考え方が違ってきますよね。

「ちょっとラーメンが伸びてしまってる。なんでオレはここで洗濯物を干したくなったんだろう? これはどういうことだ…」

なんて、考え続けてもあまり意味のない、どうだっていいことに決まってるのですが、こういう考え方をすることがクセになることによって、そのうち「あれ? もしかして」が生まれてくるんじゃないかな? などと思いついた次第です。

たぶん、20年前の僕が誰かに「『こんなこと、やってる場合じゃない』の『こんなこと』。それが大切なんだぞ」って言われても、ピンと来なかったように思います。

そのころは「こんなこと」を振り切って、リソースを仕事に向けることのできる自分が正義だと思っていたのですから。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。