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自分の頭で考えよう、って言われてもなあ…

2020.06.06

こんにちは、萩ドットライフ()です。

ずっと「自分の頭で考えよう」みたいなことを言われ続けてきましたよね。僕はオッサンなので、言われた回数よりも、他人に言った回数のほうが上回ってるような気もします…。でも、なんでもかんでも「自分の頭で考る」って、シンドイことなんですよね。

これまでに何度「自分の頭で考えよう」って言われたことか…

もう50年以上も人間をやってるし、教育というものに接してから、はや半世紀が経っているのですが、その間ずっと「自分の頭で考えろ」「ちゃんと自分の意見を持て」「考えをちゃんと言葉にしろ」みたいなことを言われてきましたよね。

「うん。まあ、間違っていないんだろうな」と思うし、説教めいた場面で使いやすい言葉でもあるので、僕も他人にそんなことを何度も言ってきたように覚えています。

順繰りなんですよね。

でも、自分自身を振り返ってみると「自分の頭で考えるなんて、そんなメンドくさいこと、いちいちしたくないよな」という場面の方が多かったように思うのですよね。

先日「別にどっちでもいい、か」という記事を投稿したのですが、そこに書いたように、たいていのことは「僕にはとくに、こだわりなんてないんです。みなさんと同じように振る舞いますよ」ということのほうが多いのですね。

僕は社会人になってからずっと、デザイナー業でメシを食ってきました。

クリエーターなどというカテゴリに入れて語られる職種なものですから、場面によっては「自分らしさ」や「ちょっと角度を変えた(ふうの)考え」を求められることがあったり、自分でも「そのようなものを前面に押し出して、存在をアピールすべきだ」みたいなことを考えてる時期も長かったように記憶しています。

ちゃんと、自分の頭で考える領域がないわけではないのです。

ただ、加齢とともに、

  1. どうだっていいから世間様の流れに従っときゃいいや、なこと
  2. 自分で考えたって、正しいところに辿り着けるワケないのだから、専門家の知恵を借りなきゃね、なこと
  3. ちゃんと自分で考えるべきこと

に、ものごとを分けて考えるようになってるような気がするのですよね。

なんとなく「セミリタイア生活っての、始めてみようかな」なんて考え始めた、40代後半から50代の入口くらいにかけて、こんなことを感じるようになった気がします。

僕はいま、若い頃の僕が嫌っていた「どっち付かずの」「あやふやなことばかり言ってる」「ものごとをちゃんと自分で考えようとしない」オッサンになっています。

いや、ホントにね。50歳になると「なんでもかんでも『自分の頭で考えろ』って無理よ」っていう考え方になってしまうものなのですよ。

全部が全部は、無理だと思います

世の中で起こるたいていのことは(1)の「どうだっていいから世間様の流れに従っときゃいいや、なこと」なのですよ。

よくほら「戦いを略すと書いて、戦略なのです」って言い方があるじゃないですか。
それと同じような感じで、あまり意味のないところで「こだわり」や「自分らしさ」を発揮するのもキツいと思うのですよね。

そりゃ、他人の言動を見聞きして「おや、なんか気に入らねえことしてくれてやがるぞ」なんて感じることもあったりもしますが、いちいち引っかかったり、「いや、オレはこう思うねえ」などと押し付けることもなかろうと思うのです。

たとえば、今回の新型コロナ禍に関する「オレたちはどう振る舞えばいいのか?」なんて(2)の「自分で考えたって、正しいところに辿り着けるワケないのだから、専門家の知恵を借りなきゃ、なこと」ですよね。

年明けくらいから騒ぎ始め、ダイヤモンド・プリンセス号で感染者が確認されてからというもの、音を立てて様々なニュースやレポートや論文が発表され続けましたよね。

こういうの、僕が読んでも正しい判断ができるとは思えないのです。
自分にとって都合のいい「○○先生がこう言ってる」をつまみ上げる程度のことしかできないのですよね。

災害だったり、人の生死に関わることだったり、周囲の人を巻き込むようなことって、めったに起こることではありませんが、「あ、ここはシロート判断しちゃダメだ」「オレが足らない知恵を巡らせる場面じゃない」という見極めって、大切だと思うのです。

こうやって、自分の頭で考えてもどうしようもない(1)と(2)を省くことを常に念頭に置いておくことで(3)の「ちゃんと自分で考えること」に集中できるのです。

「自分の頭で考えること」の領域

「ちゃんと自分で考えること」って、自分の人生の勝負どころだったり、歩んでいる道の微調整だったり、普段の生活を豊かにしてくれることだったり、本質的な戦いに必要な事柄なのだろうと思うのです。

だから、些末なことや自分のチカラが及ばないことに「こだわり」を持たないようにすることが「生きやすくするための工夫」なのだろうと思うようになっています。

「こだわり」って、わりと良い意味で使われがちですよね。もともとはネガティブな言葉だったはずなんですけどね。

「シェフのこだわり」とか「産地直送の素材にこだわってます」「道具にはこだわりますね。妥協できないんすよ」みたいな感じですね。

「まあ、いいんじゃない?」とは思います。

「『拘泥』という言い回しがあるように…」「そもそも『こだわり』とはネガティブな意味を含んでいて…」などと、言葉の使い方に「こだわって」も意味ありませんからね。

国語の先生になるつもりもないし…。

ただ「そこにこだわることって、本質ですか?」「それについて延々と考え続けた果に、何がありますか?」ということは、きちんと整理を付けておきたいのです。

ちょっと話はそれますが、なにかを「やらない」理由として使っちゃうパターンもありゃしませんかね?

「そこ、こだわっちゃうんですよね」
「僕のポリシーなんです」
「そういうことやんない主義なんですよね」
「ワタシって、そういう人なの」

みたいな感じですね。

こと「自分の頭で考えよう」な領域って、そういう言葉で選択肢とか拡がりを阻害しちゃダメなところだと思うのですよ。

自分のいる場所、信じてるもの、培ってきたもの、好きなこと、あれやこれやのいろいろを、いったんゼロベースにしてみよっか、みたいな工程も必要だったりしますからね。

「自分の頭で考える」って、割とややこしいのですよ。

だから、オッサンになると「なんでもいいんじゃない?」という処理が増えるのですよね。
細かいことを、いちいち自分の頭で考えはじめちゃうと、バテるのですよ。

だから、細かいことにいちいち口出ししている同年代の方々を見かけると「スゲぇな」と思うのです。

ただ、僕は「どうでもいいこと」「自分のチカラが及ばないこと」は、ほっといて、その分「自分の頭で考えるべきこと」に関しては、死ぬ直前まで、粘っこく、口うるさく、ややこしい感じを残し続けようと、そんなふうに思っています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。