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老後を始めるなら、お若いうちに

2020.09.29

こんにちは、萩ドットライフ()です。

現在50代半ばの僕は、世間的にはまだ「老後」と呼ばれる年代ではないのですが、ずっと意識しているのです。かつて「年取ったらやりたい」と思っていたことを始める決断をするタイミングが、この「老後」という言葉のような気がしているのです。

「年を取ってやりたい」ことは、年取ったらできない

僕が、いまの半分くらいの年齢だったころ「年をとったら、田舎の一軒家で草むしりをしたり、DIYをしたりしながら暮らしたいなあ」なんて考えたこと、あったっけなあ? などと思い出しています。

うっすらと考えてたような気もするし、「もう田舎暮らしなんかしないぞ」みたいな感覚でいたような気もします。
早い話が、あまりそんなことに関心がなかったんでしょうね。

ただ、年に数回くらいは、20年後、30年後の自分を想像していたような記憶はありますね。

想像の中の僕は、はるか未来の、白髪頭で立ち上がるときに「ヨッコイショ」とか言っちゃう自分をイメージしていたのだと思います。
そのころはまだサラリーマンだったから「定年後」くらいをイメージしてたのかな?

そのころは55歳定年だったので、そっか、まさに今の年齢の自分を想像していたってことになっちゃいますね…。

社会に出たばかりのころ、55歳でお花もらって定年退職していく人って「お爺ちゃんだな」って思ってましたもんね。
僕はすでに、そのお爺ちゃんたちの年齢を超えてるんですよね。

ググってみると、60歳定年が努力義務化されたのは1986年のことですね。
僕が社会人になった頃って、ちょうどその移行期だったっぽいですね。

もしかすると「この人55歳だったんだ」って思いながら見送った人、もしかすると60歳だった可能性もありますね。

その頃から50代半ばの今まで、いくつもの「やがて歳を取って、のんびりできるようになったら…」を想いつつ望んでいた「あんなことしたい、こんなことしたい」があったような気がしますが、現実にはあまり記憶に残りませんよね。

実際にセミリタイアしてみて、老後(=お爺ちゃんの生活)を始めているのですが、実はここ数年で一番体力を使う生活をしています。

当然、徹夜はしませんし、迫りくる締切にオタオタしながら、2・3時間睡眠でずっと制作物のことを考え続けることもありませんし、就寝中にクライアントの不満そうな表情が夢に出て、飛び起きて作戦を練り直すこともありません。

そういう意味の体力ではなくて、朝起きたら家の周囲に異変が起きてないだろうかと見て回り、草が生えてきたら何時間も中腰になって根から抜き、落ち葉をかき集めて落ち葉焚き、とうぜん火を使ってる間はその場で監視しています。

買い物は坂道のある道程を自転車で往復しています。
これに関しては、自動車免許を取って、車を買えば済むことなんですけどね…。

いま僕が思っていることは「年を取ってやりたいことは、年取ったらできない」ってことなのです。

元気じゃなくなったことは、忘れてしまうのです

50代半ばって、思ったよりも元気です。

さっきも朝ランしてきて、思ったよりも寒くて1時間程度走ってもウッスラ汗ばむ程度だったので、途中何本か坂道ダッシュを追加したり、帰宅してみるとお風呂にお湯を張るのを忘れていたので、お湯が溜まるまでの間、腕立て伏せや腹筋、スクワットなどどをしながら時間をつぶす、そんな感じです。

当然、個体差はあるんでしょうけどね。

「70歳になっても、元気な人は坂道ダッシュするでしょ」と考えればそれまでなのですが、だんだん億劫になってくることは確かだろうと思うのですよ。

でも、50代半ばで走ったり、草むしりしたりしているのは「事実」ですけれども、「70歳でもできると思うよ」は、希望でしかありませんからね。
できるうちに始めておいて正解なのですよ。

それに、できることは実際にやっているので「まだまだできるよ」って認識できますけど、できなくなってることって、すでに意識すらしなくなってるんじゃないでしょうかね。

じっくり考えてみると、なんとなくそういうのが見つかったりするんですよね。

たとえば僕の場合、「50代にして自動車免許を取るつもりです」という記事を投稿したのが2019年4月。それから1年半くらい経っていますが、いまだに自動車学校に入校すらしてませんからね。

タイミングの問題だとか、新型コロナだとか、いろんな理由はあるにせよ、こういうのがちょっと億劫になっていることは否めません。
もともと、そういうメンド臭がりな質(たち)ではありましたが、加齢による衰えを否定する理由にはなりませんよね…。

「今度、飲みに行きましょう」って約束した人をお誘いするのも「あいだ空いちゃったし、もういいかな」なんて思いがちだしね。

「まだまだ元気だよ」って言える部分については、意識してるしアピールもするけど、「もう元気じゃなくなった」部分については忘れてるし、自分でもなかったことにしちゃってるんですよね。

こうして毎朝ブログを書いていると、ちょくちょくそういうことに気づくのです。
いいことなのか、悪いことなのかは、謎ですけどね。

ヨボヨボになってリタイアしても、意味ないですよね

かつて「セミリタイアを失敗するとき」という記事を投稿したことがありますし、その直後くらいにも「移住だってセミリタイアだって、失敗するに決まってる」という記事を投稿しているのですよ。

どこかしらで「オレ程度の人間がする判断だもの、失敗成分が多めに含まれてるに違いない」という意識があるんですよね。

もちろん、失敗なんてしない方がいいに決まってるし、僕自身も「さあ、これから上手くやってみせるぞ」と意気込んでもいるのですが、当然どんなものにも失敗はつきものなので、その場合は受け止めるしかないのです。

そういう場合は腹をくくって、これから始まるドタバタを楽しんだり、苦しんだりしながら、どうにかこうにか向き合っていくしかないのです。

でも「決して負けない方法がある。それは戦わないことだ」では、人生つまんないと思うのです。
だから、みんな自分が参加して楽しそうなゲームを見つけてきては、そこに足を踏み入れる「決断」をしているのですよね。

場合によっては「失敗成分多めだけど、こっちのほうが楽しそうなんだよね」という選び方だってありですよね。

その決断を阻害するのが「老い」だと思うんですよね。

ちょっと変な言い方になりますけれども、老いてしまったら「年取ったらやりたい」と思っていたことに挑めなくなってしまうのですよ。
「老後」のスタートを切る判断できなくなってしまうのです。

失敗して、そこからリカバリーしたり、工夫を繰り返しながら粘ったりすることが億劫になってしまうからなんですよね。

だから僕はリタイアする(=老後を始める)ならば、気力も体力も残ってるうちに行動すべきだと思います。
ヨボヨボになってからでは遅いのです。

僕はまだヨボヨボになってるという認識はありませんが、いつそうなるかはわかりません。
自分で認識できていないだけで、部分的にヨボヨボになりかけているのかもしれません。

なんとなく「老後を・始する・決断」なんて書くと、新規事業でも始めそうな物々しい印象がありますが、だれかと友達になったり、好きになったり、進学する学校を選んだり、入社する会社を決めたり、住む家を探したりなんていう、これまでの人生で繰り返してきた判断のひとつに過ぎないのです。

だから、若いうちに始めたほうが「あ、やらかしちまった」ってときのやり直しも簡単だと思うのです。
失敗しても、そこで終わりじゃないですからね。

また、次の、別の、新しい判断をすりゃいいのです。
なんなら「老後やめた。また現役はじめる」もありなのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。