follow hagi.life

視野が狭いし情報が偏ってる、それでいいんじゃないかな

2021.01.20

こんにちは、萩ドットライフ()です。

その昔「社会人たるもの新聞を購読すべし」って言ってくる大人、少なからずいましたよね。今はどうなんでしょうね? 僕は結局、1度も新聞を購読しませんでした。おそらく視野は狭く、偏りもあると思いますが、とくにそれで困ることもないのです。

新聞を購読したことがありません

僕が学生のころ、大学の教職員やら両親をはじめ、周囲の大人たちから「毎朝新聞に目を通すことは、社会人のたしなみだ」と、必ず新聞を購読するように勧められたものでした。

中には「1紙では情報に偏りがある。できれば2紙取って読み比べるのがいい」などとおっしゃる方もおられましたね。

学生の頃からも、そして職業人の駆け出しとしてサラリーマン生活を始めてからも、僕は新聞を購読しませんでした。
まだ昭和でしたから、しつこい勧誘員が残っていた時代です。

「取ってくれるまで、ここを動かないよ」とアパートの玄関先に座り込まれ、勧誘員の目の前で「どうしましょ?」と110番したこともあります。

そういう人たちの存在が、僕が新聞購読することから遠ざけてたような気もしますが、それは本質じゃなくて「新聞を読んでる時間があったら、ギリギリまで寝てたいし、電車の中では本とか雑誌を読んでいたい」みたいなことを考えてたんですよね。

事実、本とか雑誌はものすごくいっぱい買ってましたしね。

それでも、会社で複数紙取っていましたので、昼休みや暇な時間に目を通すことはありました。
そして、自分の関心のない記事を読みながら「つまんないな」と思ってたんです。

「違う、そうじゃない」と。「関心のないことだからこそ、目を通しておくべきなんだ」「そうしないと、知識が偏るだろ?」とおっしゃった方もおられました。

一応「そうっすね」とだけ返事をした記憶があります。

それからずっと、なんかのきっかけで「今日の○○新聞、読みました?(○○の部分には「日経」が入ることが多いですよね)」という話が始まったときは「僕、新聞読まないんですよ」と応え続けてきました。

なんとなくその話が繰り返されそうな雰囲気を感じたならば、あとから会社の新聞をコピーして、家に持って返ってから読んでおけば、だいたい用は足りてましたかね…。

社会に出てから優に30年を超えますが、その間「社会人なんだから、新聞くらい取りなさいよ」って言われたのって5回もなかったように思います。
たぶん大人が、学生や駆け出しの社会人に向かって言う、教育上の定型句なんでしょうね。

いまは僕も「言う側」の年代になってるのですが、自分が購読していないので、そんなことをいう資格がありません。
なので、一度も他人に「社会人ならば…、新聞の1紙や2紙くらいは…」などと言ったことは1度もありません。

いまの大人たちはみんなどうしてるんでしょうね?

実は、オッサン・オバサンが若い人に向かって「新聞、なに取ってる? 社会人ならば…」なんて言ってる光景に出くわしたことって1度もないんですよね。
僕の周りにいる大人は、そんなこと言いそうもないってうか、そもそも新聞を購読してなさそうな人々ばかりが集まってるからってのもあるんでしょうけどね。

テレビも持っていないのです

加えて僕は、20年も前からテレビのない暮らしをしています。

テレビに関しては、民放2局しかない地域で育った(いまはもっと増えてるのかな?)し、当然チャンネル権なんてないし、母親が側で洗い物をしていたり、人が慌ただしく出入りするような環境で、じっとテレビの前にいることができなかった子供だったのです。

中学生くらいになったら、自室でラジオを聴きいたり本を読んでたほうが快適だったので、さほどテレビに関心を持つことなく育ってきました。
大学時代も合宿所生活だったということもあって、持っていませんでした。

社会人になってから、レンタルビデオを借りたいのと、ゲームをやりたかったので、小さなブラウン管テレビとビデオデッキとゲーム機(スーパーファミコンだったかな?)を買いました。
このときに買ったソニーの小さなブラウン管テレビが、僕の人生で唯一買ったテレビです。

ビデオデッキは大活躍しましたが、ゲーム機はソフトを5本くらい買った程度で、飽きました。
スーパーファミコンの次の世代の機種は買いませんでしたし…。

いっとき同居人が薄型テレビを持っていたのですが、(おそらく)一度も点いてるところを見ることなく、彼女が作業場として所有していたマンションに移動されてしまいました。

点けたことはあったのだけれど、僕がイヤな顔をしたのかもしれません…。

おそらく僕は、読みたくもないものを読まされたり、観たくもないものを観させられるのが、とても嫌いなのですよ。

たとえば、テレビだと「観てもいない番組が流れてる」という状況が、ものすごく不快なのです。
つまんない場面は無視してて、気になることや面白そうなことが始まったら集中すればいいという、そういう使い方をするものなのでしょうが、僕には合わないんですよね。

「流行ってるから」とか「共通の話題に遅れないため」みたいな情報へのアクセスの仕方も、たぶん僕には合っていません。

正直、途中で何度も「このままじゃマズいんじゃないかな? いわゆる常識ってものが欠けたままになってるんじゃない?」なんて心配になったこともあります。
でも結局、新聞は取らなかったし、テレビも放置したまま捨てましたので、行動には至ってないんですよね。

そうして、新聞も読まずテレビも観ずに50代半ばを超えたのですが、困ることなどありませんでした。
言い切れます。

自分が心地よければ、それでいいのです

おそらく僕は「視野が狭く」「情報に偏りがある」のだろうと思います。

でも、人ってだいたいそんなもんじゃありませんかね?
自分に関心のあることにしか、心弾まないし、「ヨシ、自分もなにか手を動かしてみよう」って、行動を想起したりしませんよね。

社会の出来事やら、技術や科学分野のことに対して興味がないわけじゃないのですよ。
1日中ネットニュースを読んでるし、feedlyに数え切れないほどのRSSを登録しています。

当然、YouTubeの登録チャンネルも訳わからない状態になっています。

本は山ほどあったものを「断捨離だ」って言いながら一気に捨てたのですが、また買い始めています。
(参考:断捨離を実行することにします

eBookがいまいちなのですよ。
やはりオッサンには、昔ながらの「本」って形がデバイスとして優れているように思います。

ただ、巷間言われる「関心のないものでも、目を通しておいたほうがいいよ」って考え方を否定するわけでもないんですが、僕は「時間がもったいない」と思うんですよね。

関心のないものに接する時間があるんなら、その時間を関心のあることを深堀りする時間に使いたいのですよ。

だからといって、毎朝新聞に目を通し、ワイドショー番組をチェックしている人に「それ、無駄でしょ」なんて言うことはありませんよ。
その代わり僕は、僕が好きなように情報に接するので、ほっておいて欲しいのです。

結局、何にどう向き合おうと、メリット/デメリットの両面はあるのです。
「好きなようにすりゃいいじゃん」が一番だと思うんですよね。

自分が心地よければ、それでいいのです。困ることなんかそうそうありゃしません。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。