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浅いところでわかった気になるのって、良くないね

2021.03.05

こんにちは、萩ドットライフ()です。

いったん「わかった」と腹落ちしたことでも、時間の経過だったり、繰り返しそのことと向き合うことで、印象だったり理解度だったりがどんどん変わってきますよね。一方で「第一印象は当たってる」とも思うのですが…。そのへんどうなんでしょうね?

困難だと思ってたことが、そうでもなくなる

萩に移住してきて、車に乗る生活をはじめて、そろそろ3ヶ月が経とうとしています。
この間、車を出すことになかなか気乗りしなかったのですよ。

ひとつは、駐車スペースが不整形で、しかも石垣にギリギリまで寄せないときれいに車体が収まらないのです。
そして、その石垣がガタガタしていて、サイドミラーに写らないところにでっぱりがあったりしていて、なかなか難易度の高い駐車場なのです。

もうひとつは、数百メートル続く狭くて見通しの悪い坂道を必ず通らなければならず、対向車が来るとなかなか難渋してしまう環境であること…。

前者は、僕が慣れればいいだけだし、そもそもそんなにピッタリ収めなくても大丈夫な感じではあるのです。
僕が勝手に「どうしても、このスペースにピチっと収めたい、斜めに入ると気持ち悪い」って思ってるだけなんですよね。

後者に関しては、周辺の住民はなんてことなく熟(こな)しているし、何度も往復してると、なんとなく要領がわかってくるんですよね。
対向車に気づく場所なんて、だいたい決まってますから「ここでは、こっちがバックしてこの路地にお尻を突っ込む」とか「この場所なら、あっちが広いところまで戻ってくれる」とかね。

まあ、中には絶対に下がろうとしない人もいますけどね、そういう場合はだいたい僕が「初心者だし、練習のつもりで」と、下がることにしています。
(参考:50代半ばにして、自動車運転免許を取りました

下がろうとしない人に限って、こっちが下がるとニコニコしながらクラクションを軽打ちしてくるんですよね。
道交法的には上り優先だし、警笛は決められた場所か、危険防止以外で鳴らしちゃいけないんですけどね。

こんな環境なので、車を出すのがいちいち億劫だったんですよ。
「こんなところでの運転、絶対に無理」ってほどじゃなくて、なんとなく気が重いといいましょうかね。

それが、だんだんイージーになってきました。
前述の通り、譲り合いポイントがわかってきましたし、何よりも「田舎だし、そんなに対向車来ない」ってことが印象として定着してきたからなんでしょうね。

一方で習慣にしている朝ラン。
「山を下り、城下町を抜けながら歴史を感じ、海岸沿いで海風を受け、川沿の薫りを嗅ぎながら帰路につく…。最高だな」なんて思っていたのですが、かれこれ半年も続けていると、さほど心に響くものがなくなってきました。

いっときは、いろんな景色、いろんな起伏を求めて、あらゆるコースを試していた時期もあったのですが、今は2・3パターン程度のコースを体調に合わせて淡々と走っています。

「わかった」はずだったのに

これまでの人生を振り返ってみても「こんなの無理だ、できるわけない」と思ってたことが、数年後には鼻歌交じりでできるようになっていたことなんて、いっぱいありました。
反対に「わかった。そういうことだったんだな」と腹落ちしたはずのことが、暫く経つと「あれ、オレ何も理解してなかったじゃん」と気付かされることも多々…。

僕たちは子供の頃から「ものごとをよく見て、ちゃんと理解しましょう」って教わってきましたけれども、その「理解」って言葉に対する解釈も加齢とともに変わっていくものなんですよね。

おっさんになると「わかった」と思う場面があっても、なんか疑心暗鬼になっちゃうものなのですよ。
「その先に、まだ何かあるんじゃない?」とか「オレ、浅いところでわかった気になってるんじゃない?」から逃れられなくなるんです。

これが、いいことなのか? 悪いことなのか? と言えば、たぶん「いいこと」なのです。

浅いところで感じる「わかった」って、往々にして「失礼」とセットになりがちですよね。
駆け出しの若年者ならばまだしも、おっさんに対しては、到底許される態度じゃありません。

世の中、ひとつのことが「わかる」と、それが呼び水となって、数多の「わからない」に気づくものですからね。

例えば僕は、長年デザイナーという職業を生業にしていましたけれども、同業者の仕事を見せられて「これ、どう思う」って訪ねられるのが、ものすごく苦手でした。
理由は「わからない」からなのですよ。

「僕ならば、こうしますかね」みたいなことは言えても、発注者とどんなやり取りがあったのか? どのくらいの予算感で、どういう意図が込められているのかわからないままに、他人の仕事の領域に踏み込んで、評価めいたことをするなんて、とてもできるものじゃありませんよね。

わかってしまうと、リスペクトを失ってしまう

今日は、こうして「最初に得た印象なんて、反復していれば感じ方が変わる。浅いところでわかった気になっちゃダメだ」みたいなことを書いています。
でも、普段は「第一印象に間違いはない」みたいなことも感じてるし、言っちゃったりもしてるんですよね…。

どうなんでしょうね? 
人には二面性があるものなのだから、自分の中で折り合いがつけば、それはそれで構わないんでしょうね。

なので今日は「浅いところでわかった気になっちゃダメだ」で、通しますね。

たぶん、簡単に「わかった」気になっちゃうと、そこから先の探究心がなくなっちゃうんでしょうね。
それは何かに向かい合おうとする姿勢を失うことだし、その事・物・人に対するリスペクトを失ってしまうということにつながってしまうのですよ。

リスペクトっていうと、ちょっと大げさな気もするのですが、まあ「関心を持ち続けること」みたいなことでしょうかね。

たとえば冒頭で触れた「狭くてすれ違えない、坂道だし、曲がりくねってるし、逃げられる路地も限られてる道」にしても、1日に何台も車は通ってるわけです。
うちよりも山側には、大きなSUVもいれば、中型車を複数台所有している事業所もあります。

僕が知らないだけで、みんな上手いことやってるのですよ。

前から来た車がどうやって譲ってくれるのかを観察したり、たまには徒歩でその道を通ってみると、いろんなことに気付かされるのです。

冒頭で変な事例を出しちゃったものですから、ちょっとわかりにくい話になっちゃってますね…。

言いたいのは、「この先になにかありそうだな」と思うからこそ、観察したり、下調べをしたりして、何かを探そうとするものなんですよね。
だから、浅いところで感じる「わかった」は危険だと思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。