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フリーランスになったころの失敗を記して、平成を後にしよう

2019.05.07

こんにちは、萩ドットライフ()です。

平成時代の最大の思い出といえば、フリーランスになったこと、もう20年以上前のことです。当時の「やらかしちゃった、これ失敗だわ」という恐怖と不安、そして極貧生活を思い出しながら、始まったばかりの令和時代の弾みとしたいと思います。

10連休だったゴールデン・ウィークが終わりましたね。その間に元号が変わり、平成が令和に変わりました。
本日が令和になってはじめての営業日です。

昭和から平成になったのは、僕が社会人になって間もない頃でした。
そう、僕は50代半ばのオッサンなので、昭和時代にはすでに駆け出しの職業人だったのですよ。
平成時代はまるまる、デザイナーとして過ごしました。
中でも、最大の出来事といえば、平成9年(1997年)にフリーランスになったことでしょうか。

この年の大事件といえば「山一證券の経営破たん」。平成の大不況の真っ只中の独立でした。

1年目は、引っ越しとか法人設立とか

「不況だから、独立を躊躇しよう」とか「だからこそ独立だ」みたいな考えは持っていませんでした。漠然と「10年間サラリーマンをやったら、自分の会社を持ちたい」という、就職面接時に語った夢が目的化していたようにも思います。

もちろん実行に移す前は、ずっと考え続けていたし、延々と謎の皮算用を繰り返していました。

まだ「デザイン事務所」を設立するつもりではなかったのですよ。
当時は3人で事業を立ち上げるつもりでした。
それまで勤めていた会社を辞めてフリーランスになったのは僕だけだったのですが、他の二人は、会社員を続けつつ法人の設立に出資することで「やりたいこと」をやる場とし、軌道になったら会社を辞めて本格的に参画したいということだったのです。

僕が会社を辞めたのが1997年7月の終わり。
そこから1ヶ月の休暇を取って山口県萩市の実家で過ごし、9月に東京(そのときは千葉でしたけど…)に戻ってきて、もろもろの準備をし始めたのです。

若干の蓄えがありましたので、不安よりも開放感に満ちあふれてましたね。
かなり気持ちに余裕がありました。
独立1年目にやったことは、

  • 東京都内に事務所兼自宅を借り、そこに引っ越すこと
  • 法人設立の手続き
  • 共に事業を立ち上げる3人で、夢を語りながら酒を飲むこと

くらいでした。

舞台公演のプロデュースにどっぷりハマった2年目

それでも、年が明け1998年になった頃には、すでにいろんなところに営業活動をしていたり、「やりたいこと」のいくつかを実現に移すフェーズになっていたのですよ。

具体的なあれこれは(個人が特定される要素も満載なので)割愛しますが、それまでに、いろんな方々との出会いがあり、かつ僕自身に「ライブやりたい」という希望がありましたので、舞台公演をプロデュースすることになったのですよ。

デザイナーって、自分が作ったものをエンドユーザーがどんな顔をして見ているのか、確かめる機会がないのですよ。
それがフラストレーションで「自分の会社を作ったら演者を集めて、イベントのアトラクションにキャスティングしてもらえるような営業活動もしてみたいな」みたいな希望を持っていたのですよ。

ある伝手をたどって、その話の実現性をツメていたのですが、話がどんどん膨らみ「舞台公演をプロデュースします」ということになってしまったのです。
このあたりの話は「何歳になってもコンプレックスを克服できない」でも、少し触れています。

まるで、はじめての体験だったので、しばらく没頭し続けることになります。
1998年5月に初演。1999年1月に再演。構想から、もろもろの事務処理が完了するまで、ほぼ1年半くらいは、掛かりっきりでした。
僕がシロートで、段取りを理解できておらず、後から「あれが足りない」「これじゃダメだ」という二度手間三度手間が多かったこともその理由です。

借金まみれ「これ、どうすんだ?」。絶望の3年目

最初に持っていた蓄えも、会社設立用に準備した300万円もとっくに底をついています。
銀行のカードローンをMAXまで借り、キャッシング機能がついてるものは全て使い尽くし、一緒に会社設立した2人からも借り、親にも無心しながらどうにかこうにか資金繰りをしていました。

この頃は完全に「やらかした。フリーランスになって失敗した」と思ってましたね。

舞台公演そのものの評判は良かったんですけどね、企業メセナ協議会の助成認定制度の対象になったり、雑誌アエラの取材を受け4ページにわたって紹介してもらったり、NHKとフジテレビの報道番組に取り上げられたり、TBSの年越し番組にキャスティングされたりしましたから、周りからは「すげえじゃん!」と言われていたのですよ。

ただ、実情は大赤字で「これからどうすりゃいいんだ?」と、不安と恐怖でいっぱいでした。
舞台公演の余韻があり、イベントに呼ばれたりはしていたのですが、とても食っていけるようなもんじゃありません。
同時にグラフィックデザインの仕事の営業を開始するも上手くいかず…。

当時、家賃が13.2万円+管理費0.5万円で、13.7万円の家を借りてたのですよ。
「もっと安いところにすりゃ良かった」と思っても、お金がないと引っ越しもできないんですよね。
稼ぎのほとんどを住居費に費やしてましたし、不足したら、知人友人から借りて埋めていました。

そして、毎日ふりかけだけでご飯を食べていましたし、塩をふって食べたことも。
「お米なくなった。でも交通費残さないと、営業いけないじゃん」というときには、小麦粉をこねてうどん、とか。水飲んで寝る、とか…。

この年の後半になってようやく「まだ未熟だけどWebに集中してみよう」と考えを改め、いくつかの制作会社から仕事を得ることになるのですよ。
それまでにもWebにも興味は持っていて、ずっと練習はしていたのですよ。

舞台公演の告知もWebでしましたし。「知人の紹介」みたいな感じでダサいホームページを作って納品したこともあったのです。
実際のプロの仕事ぶりを評価できるほどの知識がありませんでしたから「オレの作るホームページなんて、仕事にならねえよな。素人芸だもんな」と思っていたのです。

それを「ヨシ、売り物にしてみよう。ジャッジするのは向こうさんだ」という考え方に切り替えたのですよ。
外注先を探してる求人サイトを見て、延々とメールを送り続けてましたね。
実績がないので、無視されることが多いし、えらく買い叩いてくるような業者がほとんどだったように記憶していますが、おそらく「写植時代からグラフィックやってました」がフックになったんでしょうね。

何社から「是非一回お話してみたい」という連絡をいただき、すがる思いで面接に行ったり、これまでに作った謎作品をサーバーに上げて見てもらったり、先方のお題に答えて作業してみたりしてました。

ここで「運」が炸裂するのですよ。

結果、5社くらいの制作会社と取引を開始することに。しかもそのうちの4社は3年以上のお付き合いに発展します。

余談ですが、現在のメインクライアントとも、この頃に出会っているのですよ。
当時の制作会社はすべてバラバラになってしまい、1社も残っていませんが、クライアントとはずっと関係を築き続けることができたのです。
このメインクライアントも途中で三者合併し、広告宣伝部門の人たちもガラッと入れ替わり、一旦は指定業者を外れたこともあるのですが、旧社時代に一緒に仕事をしたことのある方々の尽力で、2年後には指定業者として復活してもらいました。

ギブ・アンド・テイクの関係を、双方が求めるレベルで維持し続けてこれたからだろうと自負していますが、それよりもまずは「運」が良かったのですよ。

やっと1,000万円に到達「食えるかも」。胸を撫で下ろした4年目

フリーランスになって4年目に、ようやく売上が1,000万円を超えました。
僕の場合、仕入れがありませんから、ほぼこれが営業利益なのですよ。
「フリーはサラリーマンの3倍稼いでトントンだよ」って言われていましたから、1,000万円という金額は通過点としてしか捉えていなかったのですが「4年目にして、ようやく」ですから、感慨もひとしおでした。

「これで満足しちゃいけない」と思いつつも、「死なずに済んだぁ〜」と、胸を撫で下ろすことができた年でした。

それまでの3年間、赤字が累積していましたので、ほとんど税金を払わずに済んだことも助かりました。この4年目と翌5年目の2年間で、1〜3年目に作った借金をすべて返済することが叶ったのです。

また、共に設立した他の2名の出資分を買い取る形で、僕ひとりの法人にしました。
これについては、いろいろな理由がありますが、特には触れません。
このタイミングで、この決断をできたことも「運がよかった」と思っています。

この年を境に、業績は上昇し始めます。
フリーランスになって7年目の2003年(平成14年)には「なんかお金貯まっちゃったな、そうだマンション買おう」と思うに至るのですから。

このころに「外車なんか買っちゃダメだ」と、運転免許を半ば意図的に失効させるのですが、これは「地方移住しよう」と考えている今、大きな後悔となっています。
免許を取り直さなきゃいけないのが、面倒くさくて仕方ないのですよ。

正直「ダメだ、諦めよう」の寸前だった

「諦めないことを目的化してはならない」と思っていました。
「オレにフリーランスは無理だった、潔よく諦めよう」「勤め人に戻って、借金はコツコツと返していこう」と、自分自身に引導を渡す寸前でした。

僕は「諦めなければ、きっとそのうち上手くいく」という話をするつもりはないのです。
「運がよかった」のです。

自分にまったく才能がないとまでは思っていませんが、突出してるわけじゃないのは自分が一番よくわかっています。
だから、運に巡り合うために、いろんなことを試しました。
まず1本目の仕事をもらうために、あらゆる「受けのよさそう」なことをしました。

でも「どこかで諦めることも決断しなきゃな」とも思っていました。それも「運」なのですよ。
自分の選択によって、自分の身に起こることは、「運」も含めて自分のせいなのです。
それが結果なのですよ。

Web制作の外注さんとして最初に頂いた仕事は、1本3,000円のバナー制作でした。

今、デザイナーを辞め「また何かの初心者になりたい」「もうワンゲーム」と思いつつ人生の転換期に望んでいます。
すでに、新規案件の受注を停止して、セミリタイア中です。

平成最後の年にこのブログを開設したのも、その行動の一環なのです。
「ブログ書いて収益化したいな」と思いつつも、なかなか思うように成果がでてくれません。
この平成から令和に変わるゴールデン・ウィークの間に、ようやくGoogle AdSenseの収益額が3,000円を超えました。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。