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主語の選択とか、属性の補足とか

2018.09.19

こんにちは、萩ドットライフ()です。

他の世代を指して「ゆとり世代は」「団塊世代は」などと言いますが、自分を指して「オレたち○○世代は」って言うことってあまりないように思うのですよ。無意識のうちに自分のバックグラウンドは自分の言葉で作りたがってるんじゃないでしょうかね?

僕、話し言葉でも「私」って使わないんですよ

僕は、ずっと一人称「僕」なんですよ。話し言葉もそうです。社会人になりたての頃だったか「社会人は自分のことは『私(わたくし/わたし)』と言うもんだ」と教わったこともありますが、いつの間にか「僕」しか使わなくなりましたね。
ホントかどうかわかりませんが、一人称の「僕」、二人称の「君」は吉田松陰をはじめ、長州藩士らが使い始めたという説があるようですので、メンドクサ気味に絡まれそうになったら「僕は萩人なので、これ長州方言なんですよ」ってかわしてた時期もありました。
ただ、オッサンになったら、誰もそんなことで文句行ってくるヤツはいませんので、たかが一人称なんて好きなやつを使い続ければいいんだと思います。

このブログでも「僕」を使って書いていますね。僕の心の中のセリフを表記する場合は「オレ」を使ってます。「僕はそのとき『オレもうだめかも』と思った」みたいな感じですね。

僕はずっと「僕」として一人称でこのブログを書いていきたいと思ってるのですよ。
ただ、ときどき自分のバックグラウンドを明確にしないと、話の輪郭がくっきりしないことも多いんですよね。
なので意図的に「フリーランス」「デザイナー」「50台半ば」みたいな自分の属性を付け加えています。
あと「オッサン(=男性)」「山口県萩市出身」という区切りもよく使います。
このブログのテーマが「山口県萩市でセミリタイア生活」なので、このくらいの属性があれば、なんとなく、どんな人がどんな事を考えて、どんな行動をしようとしてるのかは、分かるんじゃないかな? という意図で使っています。「僕」になんかしらの属性を付けるのは、この範囲内でしょうかね。
しかも、各記事で頻繁に使ってますね。
検索エンジンからの流入が多いブログにしたいのですよ。なので、1ページのみがこの「萩ドットライフ」との出会いであり、別れでもある方が多いと思うのです。
そんな方に、少しでも意味の通じる記事にしたいな、と思っているのです。「他のページに書いてあるじゃん」でもいいのですが、しばらくはこのスタイルを続けるつもりです。

あまり大きな主語を使いたくないのです

文脈上「フリーランスは」「デザイナーは」「オッサンは」と語ることもあるかも知れませんが、それは「僕は」なのですね。このくらいがギリかな…。

なにが「ギリ」なのかというと、いわゆる「大きな主語」が苦手なのです。
「大きな主語」って言い方、わりと最近出てきた言葉じゃないですかね? 前から言ってました?
ググってみたけど、まとめに時間かかりそうだったので、流します。
「みんな」とか「日本人は」「オーストラリア人は」「○○県民は」みたいな、何か大きなものを代表して語ってるふうだけど「それ、あなた個人の意見ですよね?」ってヤツですね。

例えば、自分がフリーランスだからといって「オレたちフリーランスは」みたいな語り方に耐えられないのですよ。「うゎっ、なんだオレ、気持ち悪いな」ってなっちゃうんですよね。
文脈上「ギリ」だというのは、「ここでいう、フリーランスとは自分のことを指してる」ことが分かった上で、かつ「僕は」よりも「フリーランスは」と書いたほうが伝わりやすい場合、「ギリ」なのです。

自分自身と向かい合い続けてるんですよね

ただ、他者に対しては、無意識のうちに「大きな主語」を使ってませんかね?
「だから、ゆとり世代はダメなんだよ」「アメリカ人は合理的だから」みたいなモノの言い方ですね。
たぶんこれって、他人の属性に対してあまり興味を持とうとしてないからなんじゃないですかね?
(こういう、主語なしで書くときって「自分はそうだけど、これを読んでるみなさんも、そういうことってありません?」って問いかけみたいな感じでしょうかね)

結局、僕は僕自身のことを考えてるんですよね。僕が考えたことじゃなきゃ、行動に移せないし、こうして文章にすることもできないのですから、当たり前のことなんですけどね。
他者のことを考えてるときも、「考える」の主体は自分ですからね。結局、自分のことを考えてるんですよね。

時代によるのか、年代によるのかわかりませんが、「オマエ、どんだけ自分のこと好きなんだよ」って言い方がありました。おそらく言い回しは違うかもしれないけど、今でもどこかの世代の人に使われてる表現なのだろうと思います。
この言葉、場面によって印象が変わる言葉で、相手を揶揄するときに使うこともあれば、相手のストイックさに羨望の眼差しを向けるときにも使われる言葉だろうと思うのですが、言う方もそのときに自分自身をものすごく意識してるんだと思うのです。

自分が快適に暮らすためのフィルターをこさえてるんだろうと思うのです

僕たちは、これまで自分で見たり聞いたり、体験したりして、そこから自分なりに考えてきたことを通してしか世間を見ることができないのですよね。
世間とは「自分の中にあるフィルター」のことなんだろうと思うのです。
「客観的にものごとを捉えましょう」などと言う人もいますが、そんなことは端からムリなことなので、無視すりゃいいんだと思います。

ただ、物事を見聞し続ける、行動し続ける、そして考え続けることで、フィルターをアップデートすることはできるような気がしているのです。
世間の見え方が変わってみたり、焦点があたる場所が変わってみたり、見えるものの解像度が変わったりするのですよね。そして、間違いなく自分が快適だと感じる方へアップデートを続けてるはずなのです。
(「焦点はレンズだし、解像度はセンサーだぞ」って思ったカメラさん、「ま、いいか」でスルーお願いします)

だから、他人と同じ景色を見てても、その見え方は違って当たり前だと思うのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。