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アウトプットの効能。「無知の知」とか

2019.10.08

こんにちは、萩ドットライフ()です。

アウトプットすると「自分が知らないこと」を整理できますよね。こうして毎日ブログを投稿していると、なんとなくわかってるつもりのことが「アレ? 全然文章にならない、何も知らなかったんじゃん」みたいな状況になることって、よくあるのですよ。

こうして、毎朝ブログを書き続けていると

有史以来、何度こすり続けられてきたかすらわからない「無知の知(by ソクラテス)」みたいな話を書くことになるのだろうと思いつつ、書き始めています。

1年ちょっと前から、毎朝ブログを書くことを習慣にしているのです。
起き抜けにPCを起動させて、すぐに書く内容を決めてガーッとノンストップで投稿してしまうこともあれば、なんとなくのテーマと構成を決めた後に朝ランに出かけ、帰ってきてシャワーを浴びてから続きを再開することもあります。

僕は20余年前に、フリーランスのデザイナーになったのですが、その頃と比べて「誰もがアウトプットできる環境」は、桁違いに整備されています。

当時も、テキストをhtmlで組んで、FTPでアップロードする形式、もしくはcgiを使った形式の「日記サイト」は存在していましたが、それなりの知識が必要で「誰でも」というわけではなかったように思います。

WordPressやMovable Typeなどのブログシステムが登場して、Google AdSenseでアウトプットしたものを収益化できるようになった、いわゆるWeb2.0の波に乗るようなカタチで「誰もがアウトプットできる環境」は整ってきたのです。

そして、ようやく僕も「アウトプットする側」に加わるべく、こうしてブログを書き続けているのです。

そうしてみると思いのほか、自分の知識や思考は、足らないところだらけだということに気付くのですよ。
文章を書きながら「もうちょっと考えてみないと、言葉にできないな」とか「これ、オレが思ってる意味で合ってる? ちょっとググろう」と、対症療法的に穴を埋めつつ、書き進めているのです。

無知の知

あまりにも有名な「無知の知」という考え方は、プラトンの著作「ソクラテスの弁明」に書かれているものなのですが、ざっくりと説明すると、ソクラテスは自分よりも賢いと思われる人たちを訪ね、問答を繰り返してみた。賢者たちは皆「自分こそが最も賢いと思っている」。一方、ソクラテスは「自分が無知であることを知っている」ので、他の賢者よりも自分(ソクラテス)の方が賢いと考えた、という話です。

たぶん、こんな感じでした。

こういうのって、学問なんて大袈裟な分野ではなくとも、趣味だったり、スポーツだったり、仕事上の知識だったり、何かをちゃんと学習しようと思うと、必ず通る道ですよね。

行動したり手を動かしてみる前に、ぼんやりと思い浮かべていた全能感を一撃で壊滅させられるところがスタートだったりします。

「自分、何も知らないんだ。何もできないんだ」がわかるのって、やってみてからなのですよ。

僕たちは毎日、次々と押し寄せてくる情報の中で暮らしています。
テクノロジーに関する話だったり、ビジネス界隈、世界情勢、政治、流行やら、なんやらかんやらに漫然と接して、新しいインプットをしたような気になっているのですよ。

それでも少しは影響を受けて、自分の思考の中に取り込んだ上で「さ、ブログ書こ」となった時点で「あれ? オレ何もわかってないぞ」ということが判明するのですよ。

たぶん、文章にしてみようと思わなければ、ずっとわかった気になっていたのだろうと思います。
また「書いてわかる」と「やってわかる」は、おそらく別次元のことで「まだまだ、わからないことがこの先にあるのだろうな」と感じるのです。

「聞いてわかった」「見てわかった」「書いてわかった」「やってわかった」「終えてわかった」は、それぞれがツールとしての役割が異なるのですよ。

知の断捨離

もうひとつ言えば、全てをわかることなんて、絶対に無理なのだから「関わらなくてもいいもの」を見極めるチカラも必要なのだろうと思うのです。

僕は今、断捨離を進めています。
先日「断捨離を実行することにします」という記事を投稿したように、物理的に物を捨てることから、このブログ内でもあちこちに人間関係の断捨離」たいうタグを付けた記事を書いているように「付き合い」で行動することを避けたいのです。

同様に「知の断捨離」みたいな概念も必要なのかな? などとも思っています。
モノにしろ、人脈にしろ、情報にしろ「なんか役立ちそう」「知らないとマズそう」「失うのが怖い」と、その大半が不要であるにも関わらず、保持し続けて時間と労力を割き、ストレスの発生源になっていたりするのです。

いわば「ノイズを無視するチカラ」でしょうか。

以前投稿した「facebookを使うのをやめた理由」なども同様の理由なのですが、見たくないものを見て疲弊していると、次第に自分が見たいもの、見るべきものがわからなくなってくるような気がするのです。

アウトプットの効能

「自分が何を知らないのか?」「自分はどういうものを知りたいと思っているのか?」を整理するために、アウトプットしてみることは、とても有効なのです。

当然、アウトプットするためには「事前のインプット」が必要だということは当然なのですが、そのインプットに完全性を求めるべきではないと思うのです。というか、そんなの無理なのですよ。

なので、テキトーなインプットができれば、そこで自分なりのアウトプットをしてみたほうが、いろいろと上手くいくものなのですよ。
上に書いたように、アウトプットの過程で「わからないこと」が見つかりますし、アウトプットしたことがきっかけになって、アウトプットした後もそのことについて、考え続けたり、情報感度が上がって、関連情報をインプットする能力が上がったりするものなのです。

つまり、完璧を目指してインプット作業を続けるよりも、テキトーなアウトプットをしてみたほうがインプット効率は上がるのです。

当然「ちゃんとした文章を書かなきゃ恥ずかしい」とか「間違いがないように調べてから書かなきゃ」という怯えはありますし、なかなか捨てきれるものではありません。

でも、どこかしらで「今知ってるのはここまでです。だからこれしか考えられません」「また、新しいインプットして別のこと考えたら、そのときに書きます」くらいの割り切りができないと、アウトプットをし続けられないのですよ。

「アレ知らない、コレ考えがまとまってない。だから、今日はやめとこう」という状況を作りたくないのです。
これがクセになると、心理的ハードルがどんどんあがっちゃいますからね。

とりあえず、これからも「テキトーなことをアウトプットしていきます」をこのブログの運営姿勢ということにしていきます。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。