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意図的に偏ることの大切さ

2019.11.23

こんにちは、萩ドットライフ()です。

個人にしろ組織にしろ、転機というものは必ずやってくるものです。これまでのバランスを崩さないと、未来にふさわしい形に調整することはできないのですよ。最近は「そんなにバランスって重要? 偏ることも大切なんじゃない?」などと感じています。

バランスを崩そう。偏りを許容しよう

妄想スタートで構わないから、ビジョンを持ち続けることって大切だよな、と思ったのですよ。

ひとりで自由に振る舞うことができるフリーランスであっても、社内のことを最終的に決断できる社長であっても、やはり何かしらのバランス感覚は求められるし、自らそう振る舞おうとするものなのです。

僕自身は、20数年間フリーのデザイナーでメシを食ってきましたが、先日引退し、現在は無職です。「ゼロに戻すフェーズ」だと考えているのです。
もろもろ人生をリセットして、もう一度「やりたいこと」に偏りたいからなのです。

昨晩。僕が出資しているシンガポールの会社の社長が来日していたので、トランジットの空き時間を利用して、数時間の会食をしてきました。

出資してもう10年以上経ちます。社長は僕の高校のバレーボール部の後輩。
年齢が5つ違うので、一緒にプレーしたことはなかったのですが、どういうわけだかずっと知ってるし、彼がシンガポールで会社を設立して数年経った頃に、資金不足を補う形で資本参加したのが始まりでした。

この会社も、現在の僕と同様に転機なのですよ。

これまで経営を支えていたメインの業務が下り坂になり、数年前に始めた新規事業もさほど伸びは感じられない。
可能性のある新規事業に重点を置きたいし、他にも「やりたいこと」「思いついていること」があれもこれもあるのだけれども、下り坂のメイン業務にリソースを取られて新しいことに注力できないという状況なのです。

先行きの危機を感じて、いろんな妄想は膨らませているのですが、現実の業務としてトライする余地がなく、変わらぬ日々を過ごしているのです。

数年前に僕が「いったんデザイナー辞めて無職になろう」と思っていた頃と同じような状況なのですよ。
「70歳・80歳になっても今のままのデザイナー…。クライアントワーク…。ないな」と思ってましたからね。
僕はまず、デザイナーを辞めて自分のアタマと時間に空白を作ることからはじめました。「その上で新しいことを始めよう」と。
(参考:「やめる」が先、「はじめる」があと

当然、これまで保ってきたバランスは崩れます。
なにしろ、収入が限りなくゼロに近づきますから。

僕のように個人(本当は、ひとり法人なんですけどね)ならばそれでいいのですが、従業員を抱えているとなかなかそうも行きませんよね。

それはじゅうぶん承知しているのですが「まずは余白を作ろう、そこを使って新しい試みをしよう。偏りを許容しよう」という話をしました。

バランスのよさって、そんなに重要?

これからの時代、偏っている個人や組織のほうが他人からの注目を受けやすいような気がしているのです。

これまでずっと「バランスのいい、偏りの少ない人」が優秀だということになってましたよね。
簡単に言うと「欠点が少ない人」「そつがない人」ってことですね。

僕も社会人になって30年以上経ってるし、そのうちの20年以上はフリーランスとして自分の名前で、カラダひとつで仕事をしてきたのですよ。
当然、バランス感覚の重要さは身に染みて分かっていますが、反面「それほどのものか?」とも思うのです。

むしろ「これに関しては、コイツに任せろ」という得意分野(=偏り)がないと、話が始まらないのですよ。バランス以前の問題なのです。

その上「これに関しては」の需要って、時代とともに変わって行くんですよね。
だから、個人も組織も変わり続ける必要があるのです。

何かを「コイツに任せろ」レベルにまで持ち上げるのって、割と大変なのですよ。
以前「フリーランスの僕が暇な時にやったこと」という記事でも触れたように、僕もいつも何かしらの練習や学習を続けてきたつもりなのです。

それでも追いつかなかった感覚があります。

仕事に追われながら、偶然できた空き時間を充ててるだけじゃダメなんですよ。

定期的かつ意図的に余白を作って意図的にバランスを崩すことが必要で、僕にはそれができていなかったから、50代半ばの今になって「無職になって、いったん休んで仕切り直すか」というハメに陥っているのだと思います。

だから「バランスは重要。でも、偏りはもっと大切だよ」という考えを持っているのです。

狂信的になって妄想に浸る

ゆっくりと妄想しながら、思考を膨らませていくことってすごく大切な時間なのですよ。

自分の中に芽生えた「やりたいこと」の意義を狂信的に信じて、延々と妄想し続けていく。
それを起点として、他人の共感を生んだり、新しいアイデアが房のようにできあがってくると、それがだんだんと「ビジョン」と呼ばれるものになるのだろうと思います。

だからまずは、自分自身で妄想を許すことですよね。

妄想って、社会環境や自分自身の変化に気づいたときに起こりやすいものだと感じています。
ボンヤリと得た違和感を言葉にしようとして、そこに自分の感覚を加えようとして、なんだかんだと考え始めるものだと思うのです。

たぶん、これまでの自分の中に「なかったもの」を求める過程で起こるものなのでしょうね。

妄想から発した、そしてパンパンに膨らませた「やりたい」を行動に移すには、今のバランスを崩してでも空白を作るべきなのですよ。

そして成果を得るために、一定期間は何かを犠牲にしてでも「ハマる」ことが必要な気がします。

若い頃の一時期は、生活時間の大半を仕事に投入してセルフブラック状態だったこともありますし、無職になった今は「暇と退屈」を作って、じっくりと妄想を続けることにハマっているのです。

「取り返し」がイメージできれば、それでいいんじゃない?

僕個人にしても、出資先の会社にしても、経済的に破綻しない限り進みたい方向に偏ってもいいと思うのですよ。
バランスに関しては、後からいくらでもリカバリー可能なのです。

問題が起こるとすれば、「取り返しの付かない」状態になることですよね。

僕ならば、無職でいる間に全資産失っちゃって、その上健康を害して働けなくなってしまったとか。
出資先の会社ならば、従業員の給料払えなくてトラブルになり、社長のPR(永住許可)がリジェクトされたとか…。

ことがそこまで及ぶと「あ〜そりゃダメだ。やらかしちゃったね」ってことになるのでしょうが、そうならないように気を付けながら偏りを作っていくのは、長い目で見るとプラスなんじゃない? と感じるのです。

「いろいろと、思ったとおりにやってみたほうがいいよ」というのが僕の持論なのです。

昨日、こんな感じのことを考えながら出資先の社長と語り合っていました。
うまく言語化できたのか? ほんのちょっとでも僕の考えが彼に伝わったのかは、謎。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。