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ずっと職業人であり続けたい、と無職になっても思う

2019.11.24

こんにちは、萩ドットライフ()です。

僕が「ずっと職業人であり続けたい」と思う理由って、生きてる限りずっと自分と向き合い続けたいと望んでいるからなのですよ。今のところ、思考によって得たものをアウトプットするのに、職業人であるということが僕にとっては必要だと感じているのです。

職業人であり続けたい

何度も何度も「セミリタイア生活してるよ」「無職になったよ」「快適だよ」と書いているくせに、ずっと「職業人であり続けたい」とも思い続けていますし、そう書き続けてもいます。

矛盾しているようでもありますが、確かに両方とも自分の中に存在していて「働かないこと」と「職業人であり続けること」は、共存可能な考え方だと思っているのです。

今は、それをなんとなく「仕事は娯楽」とか「生産的な趣味」といった言葉を使って折り合いを付けているのです。
〈参考:セミリタイアの定義。仕事は娯楽(=生産的な趣味)

たぶん、僕はずっと自分と向き合っていたいのですよ。

言い方は悪いですが、仲の良さをアピールするコミュニティに属して、集団や他人を主語として物事を考えるような生き方が苦手なのです。
「協調性がない」ということになるのだろうとは思いますが、その方が僕にとって心地良いので仕方ないのです。

ひたすら主語を「オレは」で、物事を考え続けたいのです。

やりたいこと/やりたくないこと、好きなこと/嫌いなこと、快/不快を言葉にし続けようとしていたいのです。
これ、昔からボンヤリと感じていたことなんですが、こうしてブログを書くようになって初めて言語化できたんです。

それまでの人生で1回も「オレは職業人であり続けたい」「オレは自分と向き合っていたい」なんて口にしたことなんてありませんでした。

自分と向き合い続けるためには、なんかしらのアウトプットをイメージしながら考えたほうがしっくりくるのですよ。
だから職業人であることは、僕にとって重要なのです。

嫌な働き方をしたくないだけなのです。

「やりたいこと」「好きなこと」「心地いいこと」を組み合わせて職業にするのが一番幸せですからね。
そして職業というアウトプット手段を持つことで、自分と向き合う工程にフィードバックを得られるのです。

自分と向き合うことの効能は、自分の中のモヤモヤしてたり、ボンヤリと生じたものを言葉にできるということです。これが心地良いのですよ。

これは自分が生きている限り、終わりのない娯楽みたいなもんですからね。
さらに、そこから生み出されるものが職業として成立して、収益が得られるのであれば、一石二鳥なのです。

僕も50代半ばのオッサンなので「世の中にそんな甘い状況なんてあるわけない」のは、重々承知しています。でもいいんです「仕事は娯楽」なんですから。

問題を見つけ続けたい

繰り返しますが、自分と向き合うこと。自分の感情をどうにかこうにか言語化することの楽しみって、こうしてブログを書くようになってから得た感覚なのです。

どこかしら「自分を発見する」みたいなところがあるのですよ。
それが快適なのです。

なので、ここのところずっと意図的に「オレは」で物事を考えるようにしています。
そうすると、どんどん一般論なんてどうでも良くなってくるのです。

もともと、ひとりで決めて、ひとりで行動するのが好きな性格だったのですが、それに輪をかけて孤独を好むようになってきています。

僕がボッチ派であることは、過去に何度か記事を投稿していますので、関心がありましたらご一読を。

「みんなは」とか「普通は」なんて考えるよりも、「オレは」で考えたほうが行動に繋がりやすいのですよ。
思考の一つひとつが、自分に対する問題設定になってくれるのです。

もちろん「この街をどうにかしたい」とか「当プロジェクトの行く末を…」みたいな意見を持つこともありますが、「自分がそう考えている」「自分がそうやりたがっている」という主語を明確にしながら考えたほうが、腑に落ちやすいし、誰かに話す、何かに書くなどの行動をした場合にも、誠意を示すことができると思うのです。

僕が「ずっと職業人であり続けたい」と思う背景には、前述の「自分と向き合い続けたい」に加えて「自分に対する問題設定をし続けたい」という欲求があるのです。

自分で答えを探して、自分なりの行動をしたほうが楽しいですからね。
「誰かと」「グループで」だとややこしくなるので、単体でやるのがベストだと思っています。

これは、20数年前にフリーになったときに複数人で会社を登記してしまい、しっくり来なくて結局僕が全出資金を買い取ったときの教訓でもあります。
(参考:フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう

単体主義。他人は他人、自分は自分

生き方なんて人それぞれで、みんな違うのですから、自分の人生に対する期待も違って当たり前なのですよ。

なので、きちんと自分と向き合い続けていれば、その人なりの問題設定、その人なりの答えの出し方があるはずで、特に他人と共有する必要もないように思うのです。

昨今のニュースやSNSを観ていると、社会から与えられた問題とそれに対する答えの出し方によって自分の居場所を決め、自分と違う答えを選んだ集団に対して攻撃性を増していく様子を見る機会が増えているように感じます。

僕は、自分なりの問題を作って、あ〜でもないこ〜でもないと、自分なりの答えを探していくような人生を好んでいるのです。
その答えをアウトプットする方法の中で、今思いついているのが「職業人としての活動」なのですよ。
しばらくしたら、違うことを言い始めるかもしれませんが、今のところそうなのです。

そして、問題を共有するコミュニティにならば参加できるかな? と思っています。
「解決方法は人それぞれでいい」が前提なのですが、やはり他の人がどんなふうに答えを出して、どんな行動をし始めるのかはすごく気になりますからね。

いや、むしろ積極的に近くにいたいとすら思うのです。

でも、そういう人付き合いをすると「他人は他人、自分は自分」を強く認識することになるので、孤独感はさらに深まっていくことになるのでしょうね。

でも、そういう生き方のほうが、僕には向いているのですよ。

セミリタイアすることを決めて行動し始めたこの数年間、僕は「別の何かに変わろうとしてるんだろうな」と感じていました。

でも、ここ数日は「変わろうとしてるんじゃなくて、ただ純度を高めていってるだけなのかもな」などと考えているのです。
無職になると暇なので、こんなことばかり考えてしまうのですよ。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。