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思考の中に交じる「否定」と折り合う

2019.12.28

こんにちは、萩ドットライフ()です。

思考を続けていると、どうしてもその中に「否定」の気持ちが交ざってきて、行動を先送りさせる原因になっているように思うのですよ。「悩んでる今が楽しいんだよ」って気になっちゃいますからね。どこかで折り合いをつけて吹っ切る必要がありますね。

「否定」の気持ちが気になって仕方ない

1年前の自分なんて、まったくの別人ですよね。

かれこれ1年半近く毎日ブログを書いていて「今日はこれについて書いてみよう」と思ったときには「過去に似たようなことを書いてないかな?」と、過去記事を検索してみるのです。

これまで幾度となく「あ、これ前にも書いてるじゃん」ってことがありましたからね。

同じことを繰り返し書きたくないというわけでもなく、今は違うふうに考えているのであれば、その部分を強調してみるのもいいかな? などと考えているのです。

今日は、自分がやろうとしいることや、他人のプランへの相談などで、どうしても「否定」を交ぜて物事を考えてしまう現象について書いてみようと思ったのです。

このブログを開設して間もない2018年8月には、こんなことを書いていました。

僕は、否定から入る話し方を意識的に避けようと思っています。
否定せざるを得ず、かつ、対案を思いつかない場合には、その話には関わらずにその場から去ろう、と。

年齢を重ねるに連れ、他人の話に否定で返す人が増える気がしてるのですよ。あくまでも僕調べですけどね。
「でも」「そう言っても」「それが正論なのかもしれないけど」…。
否定から入った方が、自説を披露するチャンスが与えられやすいと感じるんでしょうかね。
SNSでも、年かさの人ほど「好きなもの」よりも「嫌いなもの」を他人と共有しようとしているように見受けられるのです。

老言を吐く自分を戒めよう。否定から入らないようにしよう

あくまでも会議とか、他人のプランの相談に乗ってるケースを想定してるんでしょうかね。いつも人の話にケチつけてくる、特定の誰かを想定しながら書いていたのかもしれません。

「自分自身のことを考えてるときにも、否定は交ざってくるんだけど…」という視点が完全に抜け落ちていますね。

いまの僕は、無職になって長期休暇を取りながら、次の人生について考えたり行動を始めたりしているのですが、割と自分の思考に対して「否定」が織り交ってくることが気になっているのですよ。

無職になって、他人と関わることが減っていることもあり、「他人の話を否定してくる他人」なんてすでに視界には入っていないのです。

『僕は、否定から入る話し方を意識的に避けようと思っています』どころの話ではなく、自分自身に対して生じる「否定」が気になって気になって仕方ないのです。

他人事ならば「否定を先に考えるのはよくないよね」とか「せっかくの勢いにブレーキかけてどうするんだよ」みたいな、ちょっと距離を取った感想を挟み込むこともできるのですが、自分でいろいろと考えている中に交ざり込んでくると「はて、どう折り合いをつけようかな?」と悩んでしまうのです。

「悩んでる今が楽しいんだよ」問題

一例を挙げれば、萩市に買おうとしている家のことです。

僕は現在、東京と山口県萩市の二拠点生活をしています。
双方を「東京の作業場」「萩の作業場」などと呼んでいますが、東京の作業場は僕が所有しているマンションの一区画。萩の作業場は実家の1室なのです。

すでに萩市への完全移住を決めていて、古い家を購入して、セルフリノベーションをしながら生活しようと思っているのです。
先日、萩の作業場に移動したときには、なんとなく気になっている物件を内覧してきました。
東京に移動してきてからもいろいろと考え続けているのですが、その過程で立地やサイズ感についていろんな悩みも生じているのです。

そのへんの流れは、

をご参考に。

否定交じりであっても、こうしていろいろと悩んでるのが楽しいんですけどね…。
ただ、この「悩んでるのが楽しい」が問題なのですよ。

悩むことを楽しんでいる限り、僕はいつまでも希望を失わずに済むのです。
何も行動できていないにもかかわらず、です。

否定を交ぜて思考を続けているうちは、行動を先送りにできるんですよ。

これじゃダメダメですよね。

「否定」の使い方を意識する

冒頭で紹介した過去記事で書いているように、僕はなにかアイデアを出すわけでもなく、すぐに否定から入って話の腰を折るような人を「イヤだなあ」と感じる性格なのです。

同じように、思考の中に否定を織り交ぜて、行動を先送りしている自分にも「なんだかイヤな方向に向かってるぞ」と感じているのです。

そもそも僕は、物事が上手くいくのならば、それにこしたことはないし、失敗に終わったとしても「オレ、こういうの下手クソだったんだ」とか「ここのこれが原因でダメだったんだな」とかが分かってプラス1なんだから、それでいいじゃん、とにかくやってみることだよね。と考えていたはずなのですよ。

むしろ「上手くいってしまったら、そこで思考が止まるけれど、失敗したらもっと考え続けることができるよ」くらいのことを思っていたはずなのです。

どこかで誰かに酒を飲みながら得意げに語ったこともあるような…、そんな記憶もあります。

たぶん「否定」の使い方の問題ですよね。

何か行動を起こしてみて失敗した場合、準備段階で感じていた否定の気持ちから「ここが失敗の原因だったんじゃないかな?」と推察して「次はここを変えてトライアルしてみよう」と、再挑戦を企画できますよね。

自分の中に芽生える否定の気持ちは、決して「悪」ではないのですよ。
解像度は低いけど「なんか引っかかってる」って感情に由来することって多いですからね。

ただ今の僕が感じているように、行動を先送りするための理由として「否定」を使っているのであれば、戒めるべきだと思うのですね。

僕はいま、自分の周りの環境を変えてみようと考えたり行動したりしている最中です。
これを機に、自分の中に芽生える「否定」の気持ちを上手に使えるように意識してみようと思っています。

と同時に「いま感じてる否定の気持ちは、失敗したあとの反省点として生きてくるだろ。とりあえず動いてみよ」という折り合いの付け方をすることにしました。

冒頭で引用した記事を書いた頃よりは、少し成長しているような気がしています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。