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好きの理由、嫌いの理由

2020.04.24

こんにちは、萩ドットライフ()です。

昔から「損得」を排して「好き嫌い」に従順であるほうが、いろいろとしっくりくるんじゃないかと思っていたのですよ。人って「嫌い」のほうが「好き」よりも、その理由を言語化しやすかったりしませんか? なんとなくそんな事を考えているのです。

「好き嫌い」で判断することに決めてたんですけどね

ふと気がつくと、どうも最近「損得」について考えていることが多いのですよ。

新型コロナウイルスの流行によって、世界中の経済が停滞し株価が暴落、悲しいことに僕の金融資産も大きく毀損しています。

国民ひとり当たり10万円給付されるそうですし、中小企業(法人)には200万円の持続化給付金を付与すべく法案整備が進んでいます。

加えて、社会保険料や税金を支払猶予するプランも準備されているようです。

まだまだほとんどが、法案の成立待ちで、決まってるような決まってないような、なんとも言えない状況なのですが、だからこそ、いろいろとお金のことを考えてしまうのですよね。

人間どうしても「どうすれば得をするのか」って考えてしまいがちですからね…。

昨日投稿した「長期戦なら、それなりに」でも触れたように、いろんなスケジュールが頓挫していて、資金繰りに関しても「あれ? ちょっと慎重に考えないとマズい局面かもだぞ」みたいな感情が芽生えているのですよ。

ずっとこのブログで書き続けているように、セミリタイア生活をはじめて、とりあえず無職になってみたところです。

ずっと「人生100年時代。これから先は損得よりも、好き嫌いだ」なんて思い続けていて、ようやく「以降の人生、物事を好き嫌いで判断することにしよう」と決めて、そのように行動し始めた矢先だったんですけどね。
わずか半年で「損得」の世界に引き戻されてしまいました。

どうしたもんなんだろ?

「一度決めたんだから、損得なんて関係ない」と突っ張る手もあるのですが、生活もあるし、後から「あのとき理性的な行動をしていれば良かった」なんて後悔するのもイヤですしね。

とりあえずは政府や自治体が用意してくれた施策に乗っかって、使える制度は効率的に使っていこうと思っています。

50代も半ばのオッサンになって、ようやく好きなように振る舞えるフェーズになったと思ってたんですけどね…。

これって、実はなかなか困難なことで、どうしても「職業人としてのポジションを上げたい」とか「豊かな生活をしたい」とか「周囲から注目されたい」とかとかの理由で、すんなりと「好きだからこっち」と決められなかったりするものなのですよ。

少なくとも僕はそうでした。

どうしても「損得」要素が入り込んでしまうんですよ。
過去を振り返ってみても「嫌いだけども、得」に対しては、わずかながらの抵抗感があるものの「好きとまでは言えないけれども、損はしない」くらいの感じであれば、それを選ぶ決断をしがちでしたからね。

当然ちゃんと食えてこその職業人なので、悪いことではないのですが、長い期間をかけつつ審美眼が濁ってくるような感じがしていたし、たぶんストレスにもなってたんじゃないでしょうかね。

だからこそ今、セミリタイア人になることを選んでるんです、ずっと繋がってるのです。

好きなものと、嫌いなもの

人でも、場所でも、行為でも、仕事でも。
自分が「これ好き」と思うものと「これ嫌い」と思うものがあったとして、「なんで好き」「どこが好き」と問われても、上手く言語化することができなかったりしません?

たとえば人ならば「一緒にいて楽しい」「話題が豊富」「仕草が好き」「容姿が好み」などなど、なんとなく誰にでも当てはまりそうなワードは思い浮かぶのですが、いまいち決定打としては弱かったりするんですよね。

反対に「なんで嫌い」「どこが嫌い」に関しては、「だってこいつさ…」からはじまって、湯水の如く具体例が出てきますよね。

「好き」よりも「嫌い」のほうが言語化しやすいんですよね。なんででしょうね?

たぶん、そういうのについて深く研究してる人はおられるのでしょうが、あまり深くググってみることはやめておきます。そこまでの関心を持っていないのです。

ただ、ときには「嫌いなもの」に注目したほうが、物事を具体的に考えられるんじゃないのかな? と思うのです。

たとえば「なんとなくこの会社との取引、生理的に嫌だな」の「生理的」の部分を分解しながら掘り下げていけば、高い確率で「オレこのパターン、ダメだわ」にたどり着くことができるんですよね。

そしてその知見が自分の「地雷探査装置」の機能として組み込まれるのです。

「なんとなくこのクライアント、感じいいじゃん」よりも、具体化しやすいのです。

結果、自分がどういう環境を快適だと感じているか、どういうクライアントとお付き合いしたいかを理解するための手がかりとなるのですね。

居心地のいい場所に居続けようとするか、あえて厳しい環境を求めるかは、また別のレイヤーで考えるべきことですけどね。

若いころからずっと、頭のどこかに「ものごとは、損得や善し悪しよりも好き嫌いで判断すべき」という考え方はあったんです。
前述の通り、食うための損得って重要な要素なので、完全に排除することはできなかったんですけどね…。

なんだか少し、本当に書きたかったこととズレてきたのですが、何が言いたいかというと、

  • 「好きなことを考えているほうが快適、それは分かってる」
  • 「でも、嫌いなことをしっかりと掘り下げることで、『好き』がよりクッキリするよ」

だということなのです。

たぶん、別のところで「嫌いなもののことなんか、考えないほうがいい」とか書いてるような気がしますが、それはそれ、これはこれ、です。

そして、いちいちすべての「嫌い」を口にすると、それはそれでモメごとに繋がりますけどね。

ちょっと体質が変わっていたようです

人はみな、ハッピーでいたいんですよね。
楽しく過ごせれば、それでだいたい満足なんですよ。

だからそこに、いちいち理由を求める必要はないのです。
「好きの理由」なんてメンドくさいことを考えなきゃいけないこと自体が、ハッピーな状態から遠ざかることなんですよね。

僕は、そんな感じで解釈しています。

反対に「嫌いの理由」を自分なりに分析することは、その状況から離脱するための準備行動だと思うのですね。

だから人は「あそこが嫌い」「ここが気に入らない」と延々と呪詛の言葉のごとく「嫌いの理由」を吐き続けることができるんじゃないでしょうかね。

他人のそれを聞かされる立場になったり、SNSで頻繁に見かけるようになってしまうと、堪ったもんじゃありませんけどね…。

嫌いの理由を掘り下げる作業は、自分の頭の中だけでやってるほうが吉だと思いますよ。
独りでじっくりまとめてみた上で、信頼できる他人にロジカルに説明するのであれば有効かとも思いますけどね。

自分が持っている、好き嫌いを見極めるセンサーには従順でいたほうがいいように思います。
たぶんそこに、むき出しの自分がいるような気がするのです。

だって、食べ物の好き嫌いなんて、あるに決まってるじゃないですか。
同様に、人に対しても、場所に対しても、好き嫌いあって当たり前だと思うのです。

だけども多くの場合、そこに「好き嫌いは悪いこと」「みんな仲良く」「いちいち文句言わない」みたいなバグが発生しがちですよね。

それって思考の中に「損得」とか「善悪」が混在することで「好き嫌い」が濁っちゃうからなんだろうな、と思うのです。

ちょっと不思議な感覚なんですが、いったんセミリタイアして「損得」から離れてみた矢先に、社会の大きな変化によって「損得」と向き合わざるを得ないフェーズに引き戻されました。

すると、以前よりも強く「好き嫌い」に従順であることの大切さを感じるようになっているのです。

「セミリタイアするぞ」と決めて準備をはじめてから約2年。すべての案件をクローズさせて無職になって約半年。
ちょっとだけ体質が変わってることを実感しています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。