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他人を羨む気持ちがなくなってる。老いだな

2020.07.31

こんにちは、萩ドットライフ()です。

老いなのかな? と思うのですが、気づくと他人を羨むことがなくなっているのですよ。かつては常に他人と比較しながら、勝った負けたを気にする性格でしたし、常にコンプレックスを抱えていたものなのですが、そういうのがスルッと抜けているのです。

他人を羨む気持ちがなくなってることに気づく

他人が持っている才能とか境遇を羨ましく思うことが多い人生だったな、と感じでいます。

どういうわけだか、カラダが小さいくせにバレーボールをやり続けたがったり、体育学部を卒業した後、デザイン教育を受けていないにもかかわらず、デザイナーを生業にすることを志望したりしましたからね。

自分で勝手に、そういう場所を目指して歩いてっただけなのですから、誰を恨むわけでもありませんけどね。
(参考:何歳になってもコンプレックスを克服できない

ちょっとだけ強がってみせれば「だからこそ楽しかった」ってことだったのかもしれません。

ただ、50代半ばになった今ふと気付いてみると、その「他人を羨む気持ち」がなくなっているのですよ。

「いや、そんなことはないだろう」
「自分でこさえた会社をでっかくして、いまにもIPOしそうな人、羨ましくないか?」

羨ましい。

「大勢の子供に恵まれて、ゴールデンウィークやお盆のたびに家の中がにぎやかになる人、羨ましくないか?」

羨ましい。

「財を成して南の島に家を買い、身の回りのことはすべてメイドさんに任せて、ゆったりと暮らしてる人、羨ましくないか?」

羨ましい。

などなどと「他人を羨むこと、ないワケがないだろう」と空想しながら探し回れば、そりゃいくつも出てきます。

でも、ふだん普通に生活しているぶんには、そんなことまったく意識にのぼってこないのです。
たぶんこういう感情も、加齢によって失いつつあるものなのかな? などと感じています。

僕がデザイナーを辞めて、無職になること決心するに至った「オレは焼きが回った」の中のひとつなのでしょうね。
(参考:「プロ失格」を許容して、残りの人生を再構築する

反対に、かつては「他人に羨まれてるのかな」みたいな実感もあったし、それがちょっと快感だったりもしたのですが、そういう感じもしなくなりましたね。

「老眼」みたいな感じで、「老心」ってのもあるんでしょうかね?

「他人を羨むことも、最近なくなったな」って思いついたのも、たぶんこうして無理やりブログネタをひねり出してるからなのだと思います。

若かりし頃に、ココロの中に焦げ臭さを感じながら「そんなの、羨ましくなんかないよ」と自分に言い聞かせていた感じとはまったく違うのです。

あらためて「年をとって枯れるってこういうことなのかな」などと思っています。

僕は30代後半くらいに、老眼を感じたのですよ。

「メガネ替えなきゃ」とまでは思わないし、細かい文字を見るときに距離を遠ざけるような仕草をするほどではありませんでしたが「なんか焦点の合い方が変わってきたな」くらいのものです。

そのときに近い感覚です。

目に老眼があるように、ココロにも「老心」みたいなのがあるかもですね。
おそらく、その入口に僕はいるのです。

他人を羨む気持ちが減衰すると、わりと穏やかでいいですよ。
職業人としては、いわゆる「ドーパミンが出る」状態を感じなくなるので、戦闘力はかなり落ちてるように思いますけどね。

だからこそ、フィールドから去って無職になることを選んだし、セミリタイア人になったのです。

いまこうして「他人を羨む気持ちがなくなった」ということについて言及していますが、

  • 他人の行動や価値観に関心がなくなった
  • 他人の評価が気にならなくなった
  • 他人と自分を比較することがなくなった

などの現象も同時に起こっているように感じます。

その昔「いちいち他人の行動を気にするな」「人と自分を比べて落ち込むな」なんて思いつつも気になって気になって仕方なかったものなんですけどね。

それなりに楽ちんで快適なので、成り行きに任せています。

次元を上げるための「溜め」のフェーズかもです

ググってみたら「老心」って言葉、ありました。「ろうしん」じゃなくて、【おいごころ】って読むらしいです。

老心(読み)おいごころ【精選版 日本国語大辞典の解説】
① 老人の心。老人になってからの気持。
※本朝無題詩(1162‐64頃)四・三月尽日即事〈藤原有信〉「人事未レ能レ留二壮日一、老心何耐レ送二残春一」
② 父母の心。親心。
※永平道元禅師清規(13C中)典座教訓「所レ謂老心者。父母心也」
出典:老心(おいごころ)とは – コトバンク(2020年7月31日現在)

他人を羨む気持ちがなくなる(≒衰える)というのは、僕自身の生き物としてのエネルギーが少なくなってきたこともあるのでしょう。

でも、もういっぽうで、50年以上も生きていれば、羨ましい人と出会うこともそれなりに多くて「羨ましがり慣れ」してくるのかもしれないな、とも思うのです。

自分自身も、そこそこ頑張ってチマチマとステージを上げてきているので、出会う人はそれなりの「羨まし味」を備えていたりするのですよ。

なので、いちいち羨ましがっててもキリがないんですよね。

僕が「羨ましい」と思っている人も、また誰かのことを羨ましがってるし、ある部分では僕のことを羨ましがっていたりするのです。

ぐるぐると、周り巡ってるんですよね。
そうなると「羨ましい」が、なんだか薄まっていくのですよ。

たぶん、そんな感じなんじゃないかな? だから他人を羨む気持ちがなくなるのかな? などと思ったりもするのです。

もしかすると、もうひとつ上の次元の「羨ましい」を探し求めるための「溜め」のフェーズなのかもしれませんけどね。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。