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結局、精神論っぽいことって捨てきれないんだよなあ

2020.11.05

こんにちは、萩ドットライフ()です。

精神論やら根性論が苦手です。昭和の体育会で過ごしてきたにも関わらず、です。でも、人の持つチカラについて考えるとき「結局、心意気とか踏ん切りとか、そういうことだよなあ」なんてことも考えたりもするのです。なんとなく精神論と近いところ?

「精神論」って、まあ評判悪いですよね

僕はいわゆる「昭和の体育会」で過ごしてきました。
大学に「体育会」という組織があるわけでもなかったので、当時は単純に「バレー部だけど…」くらいのつもりだったのです。

それでも関東一部リーグに所属していたし、チームメイトの何人かは実業団に進んだり、全日本のメンバーとして国際大会に出場するようなチームだったので、世間的には「体育会」というカテゴリだったのだろうと思います。

体育学部だったし、1年次は学校の寮に入寮することが義務付けられているような大学でしたからね。
2年次からはバレー部の合宿所生活になります。

なのでときどき「根性あるんでしょ」「精神論者だよね」的なレッテルを貼られることもあります。
(参考:体育会出身デザイナーの視座

正直言うと、そういうのとても苦手です。

まあ、高校・大学当時は、俗に言う「昭和の体育会」的なノリもなかったわけじゃありません。
よくTV番組とかアスリート系YouTuberがコンテンツにしているようなエピソードは普通に体験しています。

でも生活全般、そればっかりじゃないんですよね。
むしろストイックに、目標に向かって淡々と練習を続ける、面白くもなんともない毎日を過ごしていたような印象です。

当然、それと並行して学生生活らしい喜怒哀楽もあるのですが、たまに良き方向にも、悪しき方向にも、少し大きめの振り幅でタガが外れるといった程度だったろうと思います。

起床当番とか夜の点呼で、お決まりの文章を長々と諳(そら)んじなければならない、みたいのだったり、上級生からの頼まれごとを処理していく話なんてのは、自動処理化すればさほど困難なことでもないのです。

練習自体も、中学から高校、高校から大学へ進学したといには「こりゃ死ぬぞ…」と思うほどにギャップを感じるものなのですが、これも慣れていくし、そのうち自分で勝手にメニュー増やしたりするものなのです。

一番イヤなのが「上手く慣れないこと(=試合で負けること)」ですからね、二番目にイヤな「キツい練習」をやるしかないですよね。
そこであまり「根性論」「精神論」が語られることはなかったように記憶しています。

当時から、そういった考え方が幅を効かせているような印象はありませんでしたね。
むしろそのころから「あそこは監督が根性、根性だから」みたいな感じで、評判悪かったんじゃないかな?

だから「昭和の体育会、根性好き」は誤りだと思いますよ。

中にいると、慣れちゃってるからなのかもしれませんけどね…。

心意気とか、踏ん切りとか、そういうのが大切だったりしますよね

前項で述べたように、僕は精神論・根性論が苦手です。
「全員ガッツで乗り切るぞっ。オーッ」みたいなのは、背筋がゾワゾワっとします。

決して、自分がいるチームではそんなことにしたいとは思いません。
他人にそういうことを強要するなんて、まっぴらごめんです。

ただ、自分に対してそういう状況を作ったことは、過去にも多々あるんですよね。

過去に投稿した『「セルフブラック」の功罪』でも書いたように、仕事を楽しんでるような気になりながら、ひどい生活スタイルに陥ってしまったりとか、そんな感じですね。

また、何かの成果を上げた人が「根性一発ですよ」なんて発言しているところを見ると、少し頬がほころぶ自分を隠すつもりもありません。

そういうの、何なんでしょうね?
「僕は精神論・根性論が苦手です」なんてことを言いながら、どこかしらに「共感」できる部分も持ってるんでしょうね。

そのへんは、スパっと切り分けられるものでもないのです。

格闘系YouTuberが、冷たい川に腰まで浸かって形稽古をやってたり、丸太を抱えて山を走ってたりするのを見ながら「おっ。いいぞ」なんて思ったりもします。
これが「○○先生に率いられた数名が、指導の一環としてやらされてる」絵だったなら「クソみてえなこと、やってんじゃねえよ」って感じるんでしょうけどね。

もちろん、精神的・根性的なことを完全に排して「こういう手順で進めるのが合理的です。詰め将棋みたいなもんです」「根性なんてくそくらえです」なんて言ってる話も大好物です。

僕の中にも「ちゃんと冷静に詰め将棋論を聞きたい、語り合いたい」ときと「いまここで合理的な話はじめたら、醒めちゃうじゃない」ってときがあるんでしょうね。

人の能力について考えるとき、まずは計画するチカラとか、継続するチカラ、事務処理能力、地頭みたいなものを考えますよね。
当然それぞれがとても大切で、他人が何かを成したときには「なんで、こいつにできたんだ?」って、やっきになってその根拠を探し出そうとしますよね。

でも、そういうときに見落としがちなのが「心意気」とか「踏ん切り」みたいなものだと思うんですよね。

割と精神とか根性のご近所さんみたいな要素なのだろうと思うのですが、そういうものが「なるほど、結局これか…」だったりすることが多いような気がするのです。

いま向き合うべきものに順番をつける

そういや、もう10年以上前になりますが、全日本男子バレーボールチームを率いる監督が滝に打たれたことが記事になったことがありましたよね。
僕と同世代の方なのでよく覚えています。

そのときは「お、やってるじゃん」くらいの印象でしたかね。
すでに、まったくバレーボールに関心を持ってませんでしたからね。
仕事忙しかったし…。

でも、いろいろ周辺をウォッチしていると「なんだあれ。バカじゃねえのか?」って意見もあれば「勝ちたいんだろうな。できることならばなんでもしたいんだろう」という意見もあったように思います。

僕も、滝に打たれたり、験(げん)を担ぐことが自分や、自分の率いるチームのパフォーマンスに影響があるなんて思いません。

でも節目々々で、「いまの自分にとって、真剣に向き合わなきゃいけないものの第一位はなんだ?」って自問自答するフェーズってあるんですよね。

そういうのって、毎朝こうしてブログを書きながらでも考えるものなのです。
僕ですらこうやって、自問自答はしているのですよ。

でも、結局「日替わり」になっちゃうんですよね。
今日の優先順位第1位が、明日は違うものになってたりするのですよ。

みんな「やりたいこと」「やらねばならぬこと」なんて、いっぱい抱えていますからね。

おそらく、滝に打たれた監督は「いま自分が全精力をかけてやるべきことは、オリンピックのバレーボールだ」と完全に決め切るための行為だったんじゃないかな? と勝手に思っているのです。

「そんなの滝に打たれずとも、決められるでしょ」に異論はないのですが、なんらかのセレモニーが必要なときってあるんですよね。
逆に、オリンピックだからこそ滝に打たれたのだと思うのです。

「さあ明日、上司にプレゼンだ」くらいだったら、やりませんよね。
それほどまでに「優先順位の決定」って、重要なものなのだろうと思うのです。

「決めた、これに向かって踏ん切るんだ。全精力をこれに注ぐ」って、自分のカラダに叩き込むための儀式ですよね。

そういう意味では、いまの僕は「二番も大事」「三番が捨てきれない」と、フワフワしている状態です。
でもまあセミリタイア中だし、このままでいいか…。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。