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教わる力(ちから)を持ち続けよう

2020.11.13

こんにちは、萩ドットライフ()です。

オッサンになると、人から何かを教わる機会って減りますよね。むしろ「教える」側に回ることを要求されたりしますもんね。そのほうがちょっとエラそうにできて快適だったりしますけど、だんだんと教わる力を失っていっているような気がするのです。

「教えてもらう」は大切だな

先日投稿した「時間割に則った生活」で書いたように現在、人生三度目の自動車学校通いをしています。

すでに仮免許は取得しており、路上教習に出ています。

学科教習はあらかた終わり、技能教習も残すところあとわずか、来週には卒業検定。
そのあとは、山口市小郡というところにある山口県総合交通センターで学科試験を受けて、それに合格すれば無事、運転免許が手に入る算段です。

かつて僕は、20歳代のころに運転免許を取得して、車を運転していました。

サラリーマン時代には千葉県市原市の事業所に通っていたこともあって、車通勤もしていたのです。
「毎日車に乗る人」だったんですね。

30代半ばでフリーランスになるころまで、ずっと車を所有していました。
その後、金銭的に苦しくなって車を手放し、逆に金銭的に余裕が出てきてから免許を失効したんですけどね…。

だから過去10年以上にわたって車を使い続けていたのです。

50代も半ばを超えて山口県萩市に移住してきて「ここから先、また自分でハンドルを握る生活に戻らなきゃな」と思い、再々度、自動車の運転の仕方を習っています。

入校前は「自分はずっと運転してきたんだから、技能は大丈夫だろ」「それより問題は学科だな…。どうしよ」なんてことを考えていたのですが、いやいや「思い過ごしも甚だしかった」と、反省することしきりです。

まともに運転なんてできてやしませんでした。

まあまあ、車は動かせますよ。S字でもクランクでも、脱輪なんかしません。
最初は車両感覚がサッパリだったんですけど、慣れればどうにかなります。
旅先でレンタカー借りたときの「鼻先とケツの位置がよくわかんねえな」な感じと同じですね。

でも、左折のときに左に寄って、バイクを入れさせないようにするとか、右折のときに「歩行者いるときに曲がっちゃったら直進車の進路妨害になるぞ」とか、そういう細かいことが多いのですよ。

正直、自分でハンドルを握ってたときは、そういうのテキトーでしたね。
前回免許取ったときに習ってたはずなんですけどね…。

いろんな変化を感じます

オッサンになってから「教えてもらう側に回る」って、とても大切なことですね。

僕が若い頃にぞんざいな運転をするクセがついていたことは否定のしようもありませんが、プロダクトとしての車も、運転に対する思想も僕が免許を失効していた20年間の間にアップデートされてましたね。

「オレは昔、ハンドルを握ってた」は無効でした。「僕はシロート」でした。

そういえば昔。といっても僕が前回免許を取得した30年以上前のことですが、自動車学校の教官って、高圧的でした。
「ハンドル切るの遅せぇよ」「ほら落ちた」「ほら、巻き込みちゃんと見ろ」みたいな感じ。

でも今回はそんな高圧的な感じは一切受けませんねいまの。
僕がオッサンだからってのもあるんでしょうが、自動車学校側も社会環境に対応してアップデートされてきているんでしょうね。

あまり横柄な態度で接してると、サクっとSNSで晒されちゃったりしますからね。

それと、心なしか街の人々も昔と比べて運転が丁寧な気がします。

僕がいま練習している萩市が田舎ということもあるでしょうし、ハンドルを握ってる方にお年寄りが多いという理由もあるかもしれません。
「練習中」のプレートを付けた車に乗っていると、よく道を譲ってもらえます。

走行中に車間距離を詰めがちだったり、信号待ちのときに前の車の直後まで寄せたり、狭いところに徐行せずに入っていこうとする僕の運転の粗さがかえって目立ちますね。

知らない間に交通環境も変わってるんですね。
ハンドルを握るお年寄りが増えたことを「アップデート」と呼ぶべきかどうかは謎ですが…。

そのたびに「ここは焦っちゃダメです。徐行しましょう」とか「この交差点はもっと左に詰めましょう、曲がるときも路肩から離れないように」などと、逐一指摘を受けるのです。

正直「いちいちウルサイなあ、ちゃんと進んでるじゃん」とか「あっちこち気にしてたら、かえって事故っちゃうよ」なんてことを感じながら、少々イライラもするのですが、この感覚がすごく大切なのですよね。

僕がどのように感じようが、教官が言ってることのほうが、問答無用に「正しい」のです。

「自分が無力であることを知る時間」を得ることって、とくに年齢を重ねれば重ねるほど失われていくものなのですよ。

子供の頃に父親から自転車の乗り方を教えてもらったとき、近所の2つ年上の大きい子に逆上がりを教わったとき、バレー部に入って先輩から…、英語の授業で先生から…、会社に入って上司から…。

若い頃には、一方的になにかを叩き込まれることだらけだったんですよね。

「教わる力(ちから)」もキープし続けなきゃね

たぶん20代後半くらいから、30代くらいにかけてでしょうね。
「教えられる」ということがどんどん減っていき、逆に「教える」ことが増えてきますし、自分のことは自分で学習し、練習する機会を自分で作らないとにっちもさっちもいかなくなってしまいます。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと

当然「教えられる」ことには、一定の屈辱やツラ味が含まれますので、それから解放されることに快感も感じるんですけどね。

そのぶん「教えてもらう」という行為が下手くそになりますよね。
他人の助言を素直に聞けなくなるっていいましょうかね。

「ぐぬぬ、これは屈するしかない」って場面でも、どこかしらで自分流にアレンジする余地を確保したりしようとしますしね。

これって「教わる能力」の低下ですよね。

オッサン・オバサンになればなるほど「教えてもらう機会」って減っていくのですよ。
そして、自分で学習するっていっても限界がありますよね。変な偏り方しちゃうし。

たぶんね、新しいことを吸収できなくなったら、そこから人生がつまんなくなり始めると思うのですよ。

僕の場合、奇しくも50代半ばを過ぎてから「運転を教わる」という機会を得たのですが、「あ、これ知らなかった」「ほう、オレはこれができないんだ」からの、「ちょっと覚える時間作ろう」「できるように練習してみよう」って、なかなか楽しいですよ。

そういやその昔、失敗しては「なんだ? 今の失敗。どこがどうなって上手くいかなかったんだ?」みたいなことだらけでしたよね。

たまには自分の「できないこと」「下手くそなこと」を探して、それと向かい合って見ましょ。

「さあ、これから失敗するぞ」なんて人なんていないに決まってるのですが、失敗は思いもよらぬところで起こるからいいんですよね。
いろんなことを振り返ってみると「失敗」も楽しさを構成する重要なパーツのひとつなのです。

自動車学校通いも、そろそろ終わりです。次の「はい、それダメ!」は、何にしようかな?
数年に1回くらいは、自分の無力さを感じることに取り組むようにしようと思い始めているのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。