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身体が鈍(なま)ると、頭が錆びる。人は老いる

2021.01.24

こんにちは、萩ドットライフ()です。

無職になった当初「考えることを要求されない」「成果を求められなくて済む」と、清々していたものですが、1年くらい経つと、ちょっとストレスに感じてきますよね。何かを考え続けていたいし、そのためには健康もキープしなきゃな、と思うのです。

仕事をしていたころは、1日中なんか考えてたよな

昨日投稿した「とりあえず1,000記事投稿してみた。さてどうしよ…」という記事の中で、毎朝ブログを書く習慣を得たことで、1日1回は自分と向き合って自分の周りのいろんなことについて考える時間を持てている、というようなことを書きました。

自分でそう感じたことが、ちょっと引っかかってたんですよね。

引っかかってはいるものの、上手い答えを出せずにモヤモヤしている最中なのですが、ちょっとだけ気付いたことは「かつて自分が職業人だったころ、もっといろいろと考えてたよな」ということなのです。

無職になってもう1年以上が経過していますが、ずっと「1日中、自分の時間になって嬉しい」とか「鬱陶しいクライアントや広告代理店のの担当者と絡まなくていいから、清々する」みたいな部分にばかり目が行っていました。

でも「そういや、全然ものを考えなくなってるんだな」そして「そっか、仕事をするってことは、ものを考えるってことだったんだな」ということに思い至ったのです。

ざっと思いつくだけでも、

  • 案件を受注したとき、その中での自分の役割について考えなきゃいけない。
  • 自分の役割を果たすとき、どういう課題を設定して、どう解決するか考えなきゃいけない。
  • その解決法をどうやってクライアントに説明するか考えきゃいけない。
  • どういう工程を経て、どんなスピード感で公開まで作業を進めるか考えなきゃいけない。
  • 公開後に、どう評価し、どう調整するかを考えなきゃいけない。

くらいのことは出てきます。
他にもまだまだ「考えること」はあったはずなのだけれども、とにかく職業人でいたときには、ずっとものを考え続けてたんですよね。

それが無職になったら、パタっとなくなってたのです。
なくなって清々していたのです。

身体がなまると、頭が錆びる。人は老いる

そうやって「無職になったら、ものを考えなくなったな」ってことに気付いたのも、毎朝ブログを書いていることの効能だろうと思うのです。

ものを考えなくなっても、気分は清々しているのですから、このままで快適なのですよ。
だから、これで何の問題もないのですが、もの足りなさは感じますよね。

僕にはブログの他に、朝ランの習慣があります。
先日投稿した「あらためて考える、朝ランの効能」でも、チラッと「頭と身体は連動してる」なんてことを書きましたが、改めてそれを強く感じています。

とくに根拠はなくて、勘に近いのですが、朝ランの習慣があるからブログを習慣化することができているような気がするのです。
「身体を動かす」を継続しているから、「頭で考える」も続いているように感じるのです。

身体が鈍(なま)ると、ものを考える力が衰える気がするのですよ。
特に、40代半ばを過ぎたあたりから、だんだんとそんなことを考えるようになり始めましたかね…。

頭が錆びついたような感覚になるんですよね。
そういうのもの積み重ねを指して「老い」と呼ぶのだと思うのです。

無職になると、すべてが自己完結になる

前々項で「仕事をすることは、ものを考えること」だと書きました。

でもこれらすべて、他人の要求に応じて、他人を喜ばせるためのことを考えてたんですよね。
それを生業として報酬をいただくのですから、当たり前なんですけどね…。

僕の場合、老いに抗うために「頭が錆びつかないように、ものを考え続けよう」としているのですが、無職になったいま、もう誰からも「これについて考えて」という要求はないし、期待もされていないのです。

こうやって毎朝「さて、今日は何について考えようか?」と自分でテーマ設定をしなければ「考える」が始まらないし、過去記事を読んでみて「なんでこのとき、こんなこと考えちゃってたんだろ?」「このとき、こう考えたことで何か行動は変わったんだっけか?」と延々と自己検証し続けるのです。

自分の中だけでグルグルと回してるんですよね。

ときどきちょっと虚しくはなります。
スポーツやってて、ある程度まで上手くなるとやってくるプラトー(停滞期)のような感じでしょうかね。

ときおり「へえ、オレはこんな考えをするヤツだったのか」みたいな気づきもあって、ちょっとした新鮮さを味わうこともあるんですけどね。

「いま人生の中の、そういう場面にいるんだろうな」と思うことにしています。

生活のリズムができつつあります

もうひとつ、無職になると失うものが「成果」です。
もちろん、それに伴う「報酬」も失うのですが、そっちは無職になることを選ぶ時点で了承済みなんですよね。

「収入がゼロになる」ことについては、十分すぎるほどに検討しましたが、「成果ゼロ」については、あまり深く考えていませんでした。
むしろ成果を求められなることも「清々する」カテゴリの中に分類しちゃってたような気がしますね。

  • ものを考えなくてもいいこと
  • 成果を求められなくなること

って、無職になったばかりのころには、清々して晴れやかな気分になっていました。

でも無職歴1年少々の間、僕にとっては、うっすらとしたストレスがずっと残り続けていて、ずっと折り合いの付け方を模索しています。

いまのところ「無職なんだから、1日中ダラダラして過ごせばいいじゃん」は、僕に合ってないような感じです。
まだ上手に無職慣れできてないってことなのかもしれませんけどね…。

「ものを考えること」に関しては、こうしてブログを書くことで、職業人時代とは少し違う形で「考える」をやり始めているので、少しは正気をキープできてるような気もしていますから、このままこの習慣を続けていこうと思います。

成果については、先日投稿した「人生における仕事の役割を、過大評価してたかもしれない」の中で、

「毎年、何かの入門者になるようにしよう」などと考えています。

と書いていますように、毎年なにかしらのテーマを設定してチャレンジして、その周辺から「成果」を求めて行こうと思っています。
過去に何度かブログ記事内で書いたことがありますが、第二種電気工事士の学習を続けています。

当然、それらの礎となる健康をキープすべく朝ランの習慣は続けるつもりですし、5週間に1回の定期通院も継続します。

  1. 身体を鈍(なま)らさないこと
  2. 頭を錆びつかせないこと
  3. 常にチャレンジするものを持つこと

このあたりを意識しながら日々を送れる、そんな生活のリズムができつつあるのですよ。

そのうち「マンネリでつまんない」なんてことを言い出す可能性も濃厚ですが、しばらくはこのスタイルで暮らしていこうと思っています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。