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知ったかぶりはダサいなあ、とは思うものの

2021.02.14

こんにちは、萩ドットライフ()です。

知ったかぶりなんて、ついやってしまうものなのですよ。だって知らないことは自分で認識できませんからね。そして主観は、知ってることと知らないことがゴチャ混ぜで形成されます。だから、何ごとも遠慮がちに語るくらいがちょうどいいと思うのです。

このテーマは自分に書けることなのか

こうして毎日ブログを書いていると、ときどき「オレごときが何を偉そうに」と感じることも多いのです。

書き進めている途中で「ありゃりゃ、このテーマを書くにはオレはまだ未熟すぎるぞ」とか「ダメだ、どんどん意気込んで変な方向に進んじゃう」ってことも多々あります。

途中でいったん手を止めて、時間を空けてまた書き出すようにしてみたこともありましたけれども、そうするとその先が書けなくなっちゃうんですよね。
だから、そのままどうにかこうにか最後まで走りきって、公開することにしています。

とにかく、質は低くても、決まった分量のテキストを生産し続けてみようと思ってはじめたブログですからね。
(参考:創造は「質より量」だと仮定する

「まあ、そんなふうになっちゃうことだってあるよね」という記録だと、自分に言い聞かせながら投稿するのです。

自分にハマらないテーマについて考えてみて、不完全ながらでもブログ記事として投稿してしまえば、それについて深く考え続けるきっかけになったりもしますしね。

過去に投稿した記事を読み直してみると、似たようなテーマについて何度も何度も投稿してたりするんですよね。

だんだんと考えがまとまって、文章が自然なまとまりになってることもあれば、最初はわりと筋の通ったことを書いていたのに、後から書いた記事のほうがとっ散らかってて散漫な感じになってることだってあります。

そういうものなんでしょうね。

知ったかぶりはダサいよなあ

僕自身が「何を知らないのか」すら分かってなくて、アウトプットが薄っぺらくなるのは、仕方ないのです。
それが僕の体験の質だったり、能力だったりしますからね。

でも、自分が知らないことを認識できていないがゆえに、知ったかぶり仕立てになることもありますよね。

僕は知ったかぶりをするヤツはダサいと思っているし、なんとかして回避しようとしているのですが、ついつい「知ったかぶり」をやってしまうものなのですよ。

いろんなものごとが「これは知ってること」「これは知らないもの」と、ちゃんと分類できるわけじゃないからなんでしょうね。
大抵のものは「知ってる」と「知らない」が混ざりながら、思考の素になってるんですよね。

「ちょっとなら知ってる」とか「ほぼ知らない」「気づいてすらいない」みたいなのがゴチャゴチャのままで頭の中に存在しているのです。

だから、ある人が読めば「うん、我が意を得たり」なんてこともあるでしょうし、別の人が読めば「浅知恵で、知ったかぶりすんな」みたいなことになるのでしょうね。

でも、そんなふうに考えていけば、どんな分野のことでも「すべてを知っている」なんて人、世界のどこにもいないのです。

「知ったかぶりは」ダサいことなのではありますが、気づかぬままに知ったかぶるのは仕方ないっちゃあ、仕方ないことなんでしょうね。

半年前に山口県萩市に移住してきた僕が「萩とは、こういう街なのです」って言ったり書いたりするなんて、知ったかぶり以外の何ものでもありません。

ただ、僕の主観は、知ってることと知らないことをゴチャ混ぜにして形成されてますから「僕はこう感じています」くらいは許容範囲ってことで構いませんよね。

わかったような気になって、他者をディスるなんて…

毎朝「この中にも、オレが気づいていないだけで、知ったかぶり成分が含まれてるに違いないぞ、ちょっと遠慮気味にしないとな」みたいなことを考えつつ、筆を進めています。

この警戒感は、ずっと続くかもしれないし、そのうち忘れてしまうかもしれません。

ただ、文章の中に批判的なニュアンスが含まれるときには、ちょっと気をつけるようにしています。
「表面だけ撫でてわかったような気になって、ディスってるわけじゃないよね…」と。

過去の自分を振り返ってみると、こういうことってよくあったのですよ。
なので、今の自分もそうに違いないと疑っているのです。

恥ずかしいから、いちいち個別の事例は上げませんけどね…。

世の中には、他者をディスることで成立しているコンテンツってたくさんあって、とくに世間的に「評価が高い」とされている人を「あんな人、大したことないよ」と貶めるための言説に溢れているのです。

そして、大したことない人間である僕は、ちゃんと知りもしないのに「わかったような気になってディスる」側に回ることで溜飲を下げてたんですよね。
僕が「テレビのない暮らし」を始めることになった遠因でもあります。

自分がものを知らないのは仕方ないのですよ。

何もわかっていない、知りもしない、調べもしないくせに「こんなやつ、大したもんじゃねえよ」と決めてかかって、他者をディスることを娯楽にしていたことがとても、こっ恥ずかしいのです。

いまだに、なきにしもあらずなんですけどね。
ほら、絶対に敵わないような人のちょっとしたいい間違えとか、論点ずらしに気づくと、ちょっと心が踊ったりしません?

オッサンになってからは、本質に影響がない場合には気づかないふりをするクセがつきましたけれどね。

ちょっと少なめに語るくらいで折り合いをつけよう

これを「成長」と呼ぶのか「加齢」と呼ぶのかは謎なのですが、ちょっとずつ気づいていくのですよ。

思いもよらぬ人が、思いもよらぬ分野に長けていたり、少し前まで侮っていた人が、気づかぬうちに素晴らしい能力を獲得していたり。
かつて馬鹿にしていた音楽を改めて聞いてみると「沁みるなあ」と感じたり。
意図的に遠ざけていたジャンクフードを「あれ? なかなか良く出来てるぞ」と、ローテーションに加えてみたり。

いろんな人や物・サービスが、なかなか、ちゃんと考えられているし、進化しているし「オレがわかってなかった。知らなかっただけなんだ」ってことなんですよね。

いろんなものが、みんなそれぞれに評価すべき要素を持ってるんですよね。
そうじゃないと、淘汰されちゃってるはずですからね。

みんな「大した人」だし「大したもの」なのですよ。

まあ、中には「あ〜ダメだこれ、最悪だ」なんてものもありますけれど、それは好き嫌いの問題だったりしますよね。
「オレ、コレ、キライ」と感じることは構わないのですが、いちいち言葉にしたり、他人に共感を求めたりすることもなかろうと思うのです。

それがたとえ「オレ、コレ、スキ」なものであっても同様です。

どこかしらに「わかってない」「知らない」成分を含んでいるはずなので、何事に関してもちょっと少なめに、遠慮がちに語るくらいがちょうどいいような気がするのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。