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くだらないことと有意義なことが、等価になる

2021.02.15

こんにちは、萩ドットライフ()です。

職業や社会的立場を手放すと、いま向き合ってることが「くだらないこと」なのか「有意義なこと」なのかなんて、どうでもよくなりますね。どちらも等しく自問自答の機会を与えてくれるんですよ。そしてその中から「好き」なものが発見できるのです。

ずっと有意義なことを求めてきた

物心がついて、勉強という概念を教えられるころからでしょうか。
「ちゃんとしなきゃ」とか「ためになることをしなきゃ」みたいなことを考えるようになりますよね。

子どものころならば「学校の勉強の役に立つことをする」とか「栄養のあるものを食べる」とかね。
大人になってからも「せっかく◯◯に来たんだから、当地の名物を頂こう」とか考えがちだし、目にするニュースも自分が関わっている仕事関係のものが中心になりがちですよね。

なにかしら、有意義なことをしていたいものなのです。

とくに社会人になると、やってることが生活と直結してきます。フリーランスになると、さらにその傾向は強まります。
見るもの聞くものすべてを「有意義か? そうでないか」で判断し始めちゃうんですよね。

あらゆるものを損得で考えるんですね。「貧乏性」とも言いますね。
生き方としては、とてもいびつで不自然なものです。

ただ、そのときはそれが正しいと思っているのですよ。
自分の中の、有意義ではない(=くだらない)ものは排除するためのフィルターを通して世の中を見ていますからね。

いつのまにか「くだらないけど、楽しくて素敵なこと」に目を向けない体質になってしまうのです。
何かのきっかけで「あれ? オレ変な感じになっちゃってるな」って気づくこともあります。
今の僕は、セミリタイア人になったことの影響なのか? 「くだらないことも、全然ありだな」と感じられるフェーズにいるような気がするのです。

くだらないことにかまけるのは、そこそこにしとけよ

山の中腹にある公園に出かけて、ベンチに何時間も座りながら「青空がきれいだなあ」と感じたり、遠くに見える海がキラキラしているのをずっと眺めていたり、たまに自分よりも低いところをトンビが飛んでいって「おおっ」って思ったり、そういうことがいいのです。
(参考:田舎暮らしも、なかなか情報量が多い

そういうことがいいというよりかは、そういうことをいいと感じる状態に自分がいることがいいのです。
すごくくだらなさ過ぎて、名前すら付いていない出来事やら感情にまみれている感じが好きなのです。

だって、青い空には「青空」って名前が付いていますが、それに気づいて「おおっ」ってなる感情に名前なんて付いていませんもんね。
ずっと空を見ていても「きれいだな」といい気分になるのですが、何気なく空を見上げて青空の爽快さに気づいたときの「おおっ」って瞬間を何度も味わいたくなりますよね。

数秒間地面を見つめて、パッと上を向いて「おおっ」を繰り返したりね。くだらないでしょ。

好きなYouTuberを見つけると、過去動画からずっと見たくなるし、床の1箇所だけ水拭きしちゃうとそこだけ感じが変わっちゃうから、結局ひと部屋全部雑巾がけしたり、クローゼットの中の服を色ごとに仕分けたり、「ウールはこのハンガー」「コットンはこのハンガー」みたいなことをはじめちゃったり…。

とにかく生活の中にはくだらない(=有意義でない)ことがいっぱい潜んでいるのです。
そして、それがなかなか楽しいのです。

まあ「何ごとにも、それなりに意義はある。無駄なことなんてこの世に存在しない」なんて、言い回しもありますけどね…。

職業人時代には、自然とストッパーがかかっていました。
「週末、締切じゃん。そんなことしてる場合じゃなかろ?」とか「どうせ暇をつぶすなら、仕事に関係あることに興味持とうぜ」みたいな意思が働くんですよね。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと

心のどこかに「くだらないことで息抜きをするのもいいけど、そこそこにしとけよ」という自制心が働いてたんですよね。
それだけ、仕事にハマってたとも言えるし、つまんない方へつまんない方へ自分を追いやっていたとも言えますよね。

定型的な質問をしてくるヤツを「くだらないヤツ」と思ってた

はじめて知り合った人から「どこのご出身ですか?」とか「ご兄弟はおられます?」「好きな映画とかあります?」みたいな決まり切った質問をされるのが苦手でした。

有意義じゃない(=くだらない)と思ってたんですよね。
言葉にはしませんが「つまんねえこと聞いてくるなよ、くだらないヤツだな」なんて感じたことも、少なからずあります。

僕の場合、仕事を通じて知り合って、個人的に一緒に食事に行ったりお酒のあるお店で落ち合ったりすることが多かったので、仕事の話を中心に相手のことを深く知りたいと思ってたんですよね。

なんとなく「間違ってるな」という認識はあったのですが、どうしても話題をそっち方面に持って行きたくて、気がはやるんですよね。
50代半ばで職業人生を終えるまで、その傾向は改善されないままでした。

今ならば「海と山、どちらが好きです?」とか「いちばん印象に残ってる旅行先は?」みたいな、ありがちな質問をし合うこともありだったんじゃない? と思っています。

そこから見つかる共通点とか、盛り上がるポイントとか、そういう「くだらない」会話を経て、もっと仲良くなれたり印象が変わったり、いろいろ膨らんだんだろうなと…。

その人が「海と…?、山…?」なんて悩む姿を見ながら、何かしら発見することもあるでしょうし、「そういや、自分ならどっちを選んで、どう理由付けするんだろう?」みたいなことも考えますしね…。

生身の人間同士でいるときに、何から何まで「有意義かどうか」で判断することなんてできやしないんですよね。

僕の場合、他人との距離を取るために、無意識にそうしてたって側面はありますけどね…。
なかなか複雑なのです。

くだらないことも有意義なことも、等しく「いい機会」なんだね

職業人時代には、相当肩肘張ってたんだろうなと思います。
傍目にはニコニコ笑ってる人当たりのいいオッサンだったと思いますけどね。

そういうのを含めて、どこかしらで職業人たる自分を演じてました。
仕事をもらい続けなきゃいけませんからね。
(参考:「仕事の報酬は仕事」という考え方

無職になることによって、その辺りの外装みたいなものが、パラパラと剥がれ落ちるのですよ。

今は全然、くだらないことが苦になりません。
むしろ何かを「くだらない」と感じることがないのです、同様に「有意義なこと」を良しともしなくなりますけどね。

今こうして「あの頃『好きな花は?』とか聞かれるの、鬱陶しかったな」なんて思い出しつつブログを書いているのですが、同時に「オレの好きな花って、いったい何なんだ? そういや考えたことないぞ」なんてことにも気づくのです。

「くだらないな」と思いながら、いい加減なことを言ったり、ちゃんと返事をしなかったりで、自分の「好き」と向き合う機会を逸してきたんですよね。

ネットに上がってるテレビドラマを第1話から最終話まで通して観ることだって、かつては「くだらないこと」だったのですよ。
でも、暇になって何度かそういう行為を繰り返してるうちに、なんとなく「好きなドラマ」ってできてくるんですよね。

ちょっと補足しておきますと、僕はずっと「テレビのない暮らし」をしてきたので、毎週決まった時間にテレビドラマを観るという習慣がないのです…。

好きなことが増えるのは、単純にいいことだし、嬉しいことなのですよ。

好きに「有意義」も「くだらない」もないのです。
どちらも、等しく自問自答の機会を与えてくれるし、その中にある「好き」を見つけさせてくれるきっかけとなるのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。