follow hagi.life

苦手な人、嫌いな人

2019.08.16

こんにちは、萩ドットライフ()です。

「嫌いな人と会わない」という鉄則について考えています。これまで意図的に「苦手な人」と混同して「なんか臭うけど、克服すべき。会っておこう」から後悔に至ることが多かったのですよ。「嫌いな人は離れる」「苦手な人は攻略する」べきだと思うのです。

どれだけ暇でもやりたくないこと

暇なのですよ。
セミリタイア生活に入っていて、最小限の仕事しかしていないからなのです。まだ残っている手元の案件がクローズしたら、1年以上の長期休暇を取るつもりです。
着々と無職に近づいている最中なのです。

だから、自分と向き合う時間を多く取っています。
長期休暇を取りながら「あれしたい」「これしたい」、休暇明けの準備のことも考え始めていますし、現時点でもう始めていることもあります。
「休暇」と言っても「この間、絶対に仕事は請けないよ」というくらいのもので、なんだかんだと自分の好きなものを探しつつ、手を出していくことになるのだろうと思っています。

ずっと自分と向き合っていると「好きなこと」「やりたいこと」が、いっぱい浮かび上がってきて、すごくここと良いのですが、反対に「オレ、こういうのホントにイヤなんだな」ということも抽出されるのですよ。

その中のひとつが「嫌いな人と一緒にいる時間を作りたくない」ことなのです。

これまでの人生の中でも「この人、嫌いだな」と感じた人って、少なからずいるのですよ。
気が進まないままに会ってみて、結局「無駄な時間だったな」ということも多々あります。

会う前もしくは会って数秒で「虫が知らせる」みたいなことってあるのですよ。
メールのやりとりでも、間に入る人のキャラクターでも、電話での話し方、会ったときの最初の印象でもなんでもいいのですが「あ、この人嫌い」と。

僕、ずっと「嫌いな人」と「苦手な人」を混同していました。
直感よりも「何かしらの意味があるかもしれない」を優先してたんですよね。

自分の判断に自信が持てなかったということも、理由のひとつです。
「これは『嫌い』なのではなくて、『苦手』を言い換えてるだけなんじゃないのか?」という葛藤があって「ん〜、わからないから会ってみるか」ってなっちゃうんですよね。

「苦手」と「嫌い」の違いってなんなんでしょうね…。

僕はなんとなく、

  • 「苦手な人」は、攻略すべき存在。成長につながるし、身になる感じがする
  • 「嫌いな人」は、本質的な部分で「合わない人」、生理的に無理。

みたいな分け方をしているのです。

「苦手」と「嫌い」

とりあえず「苦手」と「嫌い」の言葉の意味を押さえておきたくて、ググってみました。

苦手(読み)ニガテ(デジタル大辞泉の解説)
にが‐て【苦手】
[名・形動]
1 扱いにくく、いやな相手。なかなか勝てなくて、いやな相手。また、そのようなさま。「あいつはどうも苦手だ」
2 得意でないこと。また、そのさま。不得手。「数学の苦手な人」
3 不思議な力をもつ手。その手で押さえると、腹の痛みはおさまり、蛇は動けなくなって捕らえられるなどという。
「天性―といふものにて、小児の虫つかへをさするに妙を得て」〈浮・娘気質・三〉
出典:苦手(ニガテ)とは – コトバンク(2019年8月16日現在)

嫌い(読み)キライ(デジタル大辞泉の解説)
きらい〔きらひ〕【嫌い】
[名・形動]
1 きらうこと。いやだと思うこと。また、そのさま。「嫌いな食物」「運動が嫌いな人」⇔好き。
2 (「きらいがある」の形で用いる)好ましくない傾向。懸念。「独断の嫌いがある」「考えすぎる嫌いがある」
3 (「きらいなく」の形で用いる)差別。区別。「男女の嫌いなく入学を許可する」
4 連歌・連句で、句の配置上、避けなければならないきまり。
5 (「…ぎらい」の形で)名詞または他の語句に付いて、その物事をするのがいやであること、また、そのような人の意を表す。「勉強嫌い」「食わず嫌い」
出典:嫌い(キライ)とは – コトバンク(2019年8月16日現在)

なんとなく、僕の感じていた分け方で、合ってそうですね。

たとえば「野球の観戦に誘われれば喜んでいくけれど、早朝野球に誘われたら全力拒否。ボール前に投げられないし」みたいな人は「野球は嫌いじゃない(=好き)」であり「野球は苦手」な人なのです。

往々にして僕たち職業人は「成長」を求められますので「野球が苦手なのは判った。でも努力して得意になれよ」という圧力がかかるのですよね。
心のどこかに「苦手=克服すべきもの」という思い込みがあるのです。

なので「あ、この人嫌い」と思っても「いや、こちらの努力で克服できるかも…」などと考えてしまうのですよ。無駄なんですけどね。

僕は、大勢であつまる会合の中に「嫌い」な人がいてもなんとも思いません。
ニコニコしながら会話できますし、数分程度であればテキトーに話を合わせ続けることもできます。
この辺は、以前「facebookを使うのをやめた理由」でも書きましたが、両者の関係にふさわしい距離感が保たれている限り「嫌い」ではあっても「不快」とまではいかないのですよ。

反面「苦手な人」は、偶然会うことはできるだけ回避したいですね。
できるならば、事前に攻略する作戦を練ってから挑みたいのですよ。もしかすると「苦手な人」は「好きな人」の亜種なのかもしれません。

苦手は興味。嫌いは本能

なんだかんだ言いながら「苦手な人」って「興味のある人」なのだろうと思います。

スポーツチームの「監督」「コーチ」、組織の「上司」、自分よりも卓越した技術・知見を持っている同業者、いつも自分の行動をフォローしている知人などなど、決して無視できないし、その人と会って言葉を交わすと、なんかしら自分が反応セざるを得ない人たちですよね。

「役に立つ」とか「有益な情報をもたらしてくれる」というのとは違いますよね。
「自分の内面に影響をもたらす人」という言い方でどうでしょうかね?

冒頭で述べた通り、僕はセミリタイア生活に入っていますので、これまで、一緒に仕事をしてきた仲間たちとも距離を取り始めています。
(参考:言葉を残しながら、群れから離れることにしよう

なので「この人から嫌われると、仲間に顔が立たない」とかという状況がなくなりつつあるのですよ。
仕事に関してのみならず、生活全般において「嫌いな人は、視界から消そう。その方が快適だ」という考え方になってきています。
還って「好きな人」の純度が上がるし、心穏やかになることで「好きな人」が増えるのですよ。

「嫌いな人をガッツリ嫌う」ことによって、好循環が生まれるのです。

逆に言えば「自分は他者にとってどうなのかな?」という視点もできてきます。
僕のことが「嫌い」ならば仕方ない、僕も近寄らないようにしよう。でも「苦手」なのであれば「さて、今度会ったら、どう戦ってやろうか」などと思うのです。
その僕のことを「苦手」だと思っている人に、できるだけ大きな影響を与えたい。「僕はそれができる人間になれているのだろうか?」と考えてみたりするのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。