人を雇わない会社を経営してきた理由
2019.10.22
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。僕はフリーランスといいつつ、会社を経営しているのですが、結局ひとりも人を雇いませんでした。いわゆる「ひとり親方」のままです。その理由は「いろいろメンドくさいのがイヤだ」に尽きるのですが、「概ね、これで正しかったな」と思っています。
自分にとって快適な状態を保つ
僕はずっと「ひとり親方」として、会社を経営しています。
従業員も共同経営者もおらず、ずっと単独で事業を行ってきました。
最近このブログでも頻繁に「無職になりました」と書いていますが、厳密には会社経営者のままなのです。
でも「無職」と言ったほうが晴れ晴れするし、実際に労働によって得られる収入はほぼゼロに等しいので、そう言っているのです。
(参考:「無職」って言っちゃうとウソになる。でも言いたいのです)
ずっと従業員を雇わなかった理由は、端的に言えば「自分にとって快適な状態をと持ちたかったから」です。
以前投稿した「フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう」で述べたように、最初は3人で共同経営するカタチで法人を設立したのですよ。
それが上手くいかず、他2人の出資金を買い取るカタチで「ひとり親方体制」にしました。
開業当時は「従業員をたくさん入れることができる会社にしよう」などと思っていました。
社会的使命のようなものも考えていましたし、その方が豊かな生活が送れると思っていましたからね。
経営者同士で会話をしていると「従業員はどれくらいおられるのですか?」という話題にもなりがちですしね。
いっときは「いや、僕ひとりなんです」と答えることに引け目を感じる時期もありました。
また、途中で何度もキャパオーバーしそうな(していた)ことがありました。
そのたびに「誰か案件を任せられる人、もしくは周辺業務を頼める人が欲しいな」と悩んでもいました。
分岐点は何度も訪れていたのですよ。
そのたびに「チーム形成の道」を歩むことを拒み続けて、ひとり親方(=職人)でいることを選び続けて、20年以上が経過してしまいました。
上述の通り「無職」になりましたので、もう人を雇うことはないでしょう。
では、何が僕にとって「快適」だったから、ひとり親方でい続けたのか? を整理してみようと思います。
通勤をしたくなかった
サラリーマン時代から、満員電車での通勤がものすごく嫌だったのですよ。
「そんなの、みんなそうに決まってる」なのですが、何らかの対策を講じないと、まともに社会人生活を送ることができないくらい、嫌だったのです。
なので経営者と直談判して、千葉の車を置けるスペースがある営業所に席を作ってもらい、そこに自動車通勤することを認めてもらっていました。
取引のある業者との関係で、千葉にいたほうが何かと便利なこともあったから、上手く説得できたんですけどね。さほど「特別扱いされた」っぽい仕立てにならないように、いろいろと工夫していました。
そんな感じなので、自分がオーナーになってまで通勤するなんて、考えられないのですよ。
自分ちで仕事をするためにフリーになったようなもんなのです。
3人で共同経営していたときにも「通常は各自、自宅で作業してメールでやり取りしよう、必要に応じて集まろう」ということにしていたし、もし従業員を入れて、事務所を借りることになったら、そこから徒歩圏に住もうと考えていました。
そもそも「都心にあるカッコいいオフィス」にさほど魅力を感じないのですよ。
僕デザイナーですから、ある程度はカッコつけることが正義だとされている職業なんですけどね。
開業したのは江戸川区・瑞江だったし、今は江東区・清澄白河のマンションが「本社」です。
他人の気配を感じたくなかった
また、営業時間・休憩時間という概念もなかったので、複数人で時間的な足並みを揃えて作業するのがメンドくさかったのですよ。
たっぷり集中時間をとりたいときに、話しかけられたり、気配を感じることが不快だし、昼過ぎくらいに「今日ダメだ、やめた」と思っても、従業員がいるとそうもいかない。
自由を奪われるのがイヤなのと同時に、成果物の仕上がりに影響が出そうな感じもしていたのですよ。
デザイナーの仕事をしていると、当然クライアントや広告代理店、制作会社の人たちと進捗の足並みを揃えることが必要になります。
当然、時間も拘束されるし何もかもが自由になるわけではありませんが、それが毎日となると次元が違いますよね…。
また前述のように、集中しているときに人の気配を感じるのが、ものすごく苦手なのですよ。
これは、プライベートにも様々な影響をもたらしています…。
結局「人がたくさんいるところで仕事をするんじゃ、サラリーマン時代と一緒じゃないか」という思いが、心のどこかにあるんでしょうね。
従業員を雇うと、設備面でも環境面でもルール面でも、彼らに気持ちよく仕事をしてもらうための整備をしなくてはならないのです、あたりまえですね。
そこに労力を割くのが億劫だったのです。
考えついたことをすぐにやりたいと思ってた
実際は、考えついたことをすぐにやることなんてできませんでした。
以前投稿した「新しい感情」の中で書いた「心の熾火(おきび)」が、いっぱい残っているのです。
運よく僕は、クライアントや仕事仲間に恵まれ、安定した継続的な仕事にありつきながら、サラリーマンの頃よりは適度に多い収入を得ることができていました。
でも、これは「やりたいことをやる」自由と、トレードオフしていたような部分があります。
それでもずっと「やりたいことをやるために、フリーになったんだ」という気持ちがありました。
人を雇って社長業なんかはじめたら、ますます遠のいてしまうと考えていたのです。
今こうして、セミリタイア生活をはじめ「いったん無職になって休む」という選択が、はじめての「やりたいことができた」なのかもしれません。
たぶん従業員がいたら「無職になる」なんて言えませんでしたからね。
自分のみならず、他人の収入も途絶えさせることになってしまいますから。
もちろん、そこそこ大きな会社になっていれば、経営を誰かに譲って、ただの所有者になることができて、好条件のセミリタイアが実現できたかもしれませんが、このへんは「塞翁が馬」ですね。
「塞翁が馬」で考え始めると、一時が万事なんですよ。
組織がそこそこ回るようになれば、メイン業務を従業員に任せて、自分は「やりたいことをやる」時間を設けられたかもしれないし、前述の「人の気配が苦手」にしても、リモート社長のような実験もできたかもしれないのです。
概ね自分にはあってたんじゃないかな
こうして考えると「人を雇って、チーム作っても面白かったのかな」という後悔はありますが、概ね、この「ひとり親方」という体制が僕にはあってたように思います。
セルフブラックに陥ったり、ストレスを貯め込んでパンクしたこともありますが、そこまで追い込めたのは、ひとりだったからとも思うし、そんな働き方に他人を巻き込まなくてヨカッタとも思います。
「従業員がいたらそうはならなかった」かもしれませんが、それには目を瞑ります。
最後の約2年半は、制作会社にディレクターという名のミーティング&連絡係を置いてもらって、完全リモートで作業をすることができました。
そのおかげで、東京と山口県萩市の二拠点生活をはじめることができたのですが「自分の組織を持っていたらどうだったんだろう?」と考えます。
自分の組織内で同じようなことができたのかもしれませんが、おそらく「社長、また萩に行ってるよ」と、組織の士気を下げる要因になったかもしれませんし、「ウチはこういう働き方、推奨だよ」と面白い取り組みができたかもしれません。
未来の最適解は謎
こうして無職になった今、少し引いて組織と個人の関係を考えてみると、だんだんと両極化してくるのかなあ、と思います。
ひとつは僕が歩んできた、ひとり親方の道。これ、もっと増えると思います。
専門技能をもったフリーランスが複数集まって、バーチャルな組織活動をする形態ですね。
ひとりひとりが経営者なので、成果にも成長にも責任をもちながら、みんなで新しい価値を生み出す風土です。
個々が同じ場所にいる必要もなく、ネットでコミュニケーションを取りながら、地方や海外の人とチームを作ることができます。
もうひとつは、スペシャリスト集団のほどよいサイズの組織。
どうしても、フリーランスが集まる傭兵戦では突破できないミッションってあると思うのですよ。
僕がずっと生業にしてきたWebの業界では、これを感じ始めつつあります。
1年以上前に「撤退戦をコンテンツ化してみる」という記事を投稿していますが、その中で、
すでに今、感じてるんですよ。求められるものが高度になりつつあるがゆえに「ひとりで全部」って難しくなりつつあるんですよね。僕の携わっている現場でも、必要に応じて分業が進みはじめてはいるのですが、これまで「ここはWebデザイナーにお任せ」って言ってた部分が、複数の高度専門家の業務に分散されたり、または評価・判断するための知識が多角化したりしていっている感じがしているのです。
最終的には「クライアント内部にWeb制作部門を開設」「SNS、Web広告、UXなどの領域を包括的にカバーできるプロダクションへの一括発注」みたいな方向にいくんじゃないでしょうかね?
と書いていますが、そこそこのクオリティを求められる案件は、常設の専門家集団の漁場になるような気がしているのです。
前者(スペシャリストのバーチャルな連帯)も、後者(常設のスペシャリスト集団)も、今後流動的だと思います。
とにかく重要なのは、自分が何かのスペシャリストであり続けることですね。
常設かバーチャルかについては、「常設かつバーチャル」が納得感あるカタチで実現すれば、解決されるのでしょう。
生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。