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相手の視点を持たなきゃね

2020.06.21

こんにちは、萩ドットライフ()です。

その人に悪気がないことは重々承知しているのです。でも「できれば、その親切を受け取るの、回避したいなあ」と思うことってありますよね。逆にこちらが親切の押売をしている場面もあるかもしれません。それって「相手の視点」の欠如なんですよね。

その「よかれ」は理解できるんですけどね…

たぶん、その人は親切だし、僕のことを考えてくれているし、あれやこれやと「よかれ」なことを思ってくれているはずなのですよ。

それはわかっているのです。

でも「だからこそ、やっかい」ってことが往々にして起こりがちですよね。
たとえば僕は、他人からものをもらうことが嫌いです。

以前「物いらない。もらうことがイヤなのです」という記事でも書きましたが、自分が選んでいないものが生活空間に存在していることが不快なのです。

とは言え、ノベルティでもらった小物とか、訪れた土地のお酒とかお菓子のような、消費すれば文字通り消えて無くなるものに対して「僕、物もらうの嫌いなんです」などと、わざわざ険悪な空気を作ることはしません。

でも「お引越し祝いしなきゃね」と家電や家具、置物や食器などを贈られそうになったときには、先方に失礼な感じにならぬように、かつものすごく必死に抵抗します。

それでも、どうにかして「これは? あれは?」と事あるごとに物を贈ってこようとする人っていますよね。

おそらく、僕が「物いらない」と言ってることは知ってるけれども、他の人にも何かを贈っているタイミングで、僕だけを除くことに抵抗感があるんでしょうね…。
「贈るものを提案してみたけれども、拒まれた」というやりとりを儀式化なさっているのかもしれませんね。

僕の側からしても「いや、そのやりとりも不快だからホントにやめて」というほどでもありませんし、そのくらいは仕方ないのです。

ごく稀に「じゃあ、欲しい物リストください」とか「一緒に買いに行きましょう」みたいなケースもありましたが、その話を始めると切りがないので割愛しますね。

おそらく、その人は物をもらうことが好きな人なのですよ。
だから他の人たちにも物をあげたがってるのだと思います。そうすることで、自分と同じように相手も喜ぶはずだと考えているのでしょうね。

他にも「そろそろみんなで集まろうっか」と会合を催す頻度が高めの人や、訪れるたびに「フットマッサージ行きましょう、気持ちいいですよ」と連れて行きたがる人だったり、先方の「よかれ」が理解できるだけに「はて、どう断ろうか」と思案するのがメンド臭いこと、ちょいちょいあるのです。

自分がされてウレシイ ≠ 他人がされてウレシイ

そもそも人によって、求めるコミュニケーションの量も質もスタイルも異なるのですよ。
それは当然、初対面か長い付き合いか、プライベートかビジネスか、同性か異性かなどによっても異なるに決まっているのです。

セミリタイアして無職になっている僕が、なんでもかんでも「仕事」に結びつけながら物事を語るのは、少々気がひけるのですが、なんとなく仕事になぞらえたほうが分かりやすそうなので、そうしますね。

デザイナーであろうが、料理人であろうが、すべての職業には、かならず「お客」がいて、その人(集団)に満足してもらうことを想像しながら、作業を進めていきますよね。

「自分がこの工程でこういう処理をすることによって、相手はどう感じるだろう?」と考えるのが仕事の根本だろうと思うのです。

当然、先方が求めるコミュニケーションは相手の数だけあるはずなので、それぞれに合わせて上手くチューニングすることが求められるのです。

そこで持つべきなのは「相手の視点」であって「自分の視点」ではありません。
為すべきことは「相手が喜ぶこと」であって「自分が喜ぶこと」ではないのです。

こう考えると、とてもシンプルなことなのですが、現実的にはなかなか上手くいきませんよね。

そもそも「相手の視点」がゼロの人は論外で、1秒でも早く距離を取ることが得策だと思います。

たとえば、やけに高飛車な人とか、意味わからないマウンティングしてくる人、コミュニケーションを拒否してくる人とかですね。

「コミュニケーションを拒否してくる人」に関しては、しょっちゅう電話をかけてくる人とか、頻繁に対面ミーティングを求める人、ちょっとしたウザ味を感じた人に対しては、僕もそうなりがちなので、お互い様なんですけどね…。
(参考:コミュニケーションが、めんどくさい

ホントにやっかいなのは、善意に満ちている人なのですよ。
ご自身の善意に基づいて「自分がされてウレシイことは、他人もされてウレシイ」と思っておられるのです。

僕は、そこそこ付き合いが長くて、話やすい方には、上で述べたような「物もらうの嫌いなんです。自分が選んでいないものが生活の場にあることが不快なので」みたいな「僕それイヤです」を伝えます。

でも、そこまでの関係性を持たない方からのイキナリの「よかれ」には、ちょっと戸惑いますよね。
「あ、これイヤだな」と感じたとしても「どうもありがとうございます。すごくウレシイです」とお礼を言うことになりますよね。

心の中で「(あなたにとってはね)」とつぶやきながらですけどね。
だって関係の浅いうちから「僕はこういうのが嫌いで…」などと、偏屈アピールしてくるオッサンなんて、メンド臭くて仕方ありませんもんね。

僕の側にも「相手の視点」は必要なのです。

大切なのは「相手の視点」

人生50年以上過ぎてくると、なんとなく自分にとって最適なコミュニケーションの量、質、スタイルが分かってくるものなのですよ。

加齢とともに変化してくることにも気付きますね。

もともと僕は独りきりの空間での作業時間を増やすことを求めてフリーランスになったように、さほどコミュニケーションに「量」を求める質(たち)ではありませんでした。

その傾向、どんどん進行していくようです。

昨年(2019年)9月にセミ無職になってから、定期的なメールのやりとりは週2回程度、誰かと会うのも月に1・2回程度になりました。
このペースがしばらく続いていたのですが、適量だと感じていました。

新型コロナ禍で、世間が自粛生活になったら他人と会う機会がゼロになったのですが、いっさい苦痛を感じていません。

それよりも、東京のマンションを売却するために、緊急事態宣言が出る前の3月、解除された5月に頻繁(ほぼ週末ごと)に人の出入りがありましたので、それには少々くたびれましたね。
(参考:東京のマンションに買い手がつきました

気心の知れていない人を家に招き入れるという行為は、いまの僕にとってかなりの負担なようです。
以前は、それほどでもなかったんですけどね。

もともと、自宅=作業場=オフィスなので、そこそこの人の出入りは想定していたし、話の噛み合う友人が出入りしていることが楽しかった時期もあったんですけどね。

この辺の感覚にも「相手の視点」って必要ですよね。

たとえば学生のころ、お互いの部屋を行き来したり、飲んでそのまま泊まってた仲だからといって、大人になってからも「行っていい?」「泊めてよ」と要求するのにはちょっとした注意が必要だと思うのです。

自宅だったりオフィスだったりを「引っ越しました」って連絡が来れば「ぜひ今度、遊びに伺わせてください」と返すのが礼儀っぽくなってますけどね…。

逆に「うちにおいでよ」「泊まっていけばいいじゃん」も同様ですよね。

相手には相手の好きな振る舞い方があるし、それは「以前はこうだったじゃん」をそのまま流用できるものでもないのです。

「水臭いな」とか「ケチケチすんなよ」という言葉で包んだ「自分はこうしたい」を押し付けるべきではないのですよね。

いろんな場面で、この「相手の視点」を持つことに留意すれば、万事が上手くいくはずなのですけどね。

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