自分は運がいい、について考える
2020.06.22
こんにちは、萩ドットライフ(
)です。運とは、準備と機会のマッチングシステムだと思っているのですよ。自分ではコントロールできない「巡り合わせ」と、日々の営みの中でどうにでもなる「準備」との掛け算ですね。なので「運がいい」ということは、すべてが偶然ではないように思うのです。
巡り合わせは、自分ではコントロールできないのです
若かりしころは「運がいいですね」と言われると、ちょっと心がざわついていました。
なんだか「あなたは、たまたま実力以上の仕事を得ることができてますね」とか「本来、そんな能力ありませんよね」といった意味のことを言われているような印象を受けていたのです。
僕はずっと、美術教育を受けていないにも関わらず、デザイナーを名乗っていたし、さらに系統立ててプログラミングや工学的な訓練を受けていなのにWeb制作を生業としていたので、ずっとコンプレックスがあったんですよね。
そのコンプレックスは、手持ちの案件をすべてクローズして無職になった、ついこないだまで持ち続けていました。
(参考:何歳になってもコンプレックスを克服できない)
かつて「運がいい」という言葉に、ちょっと歪んだ反応をしていたのは、コンプレックスの裏返しだったのです。
それがだんだんと「そうね。オレは運がいいんだな」と思うようになってきたし、他人にも「僕、運がいいんですよ」と自分から言うようになってましたね。
加齢と共に、性格が丸くなっていっただけなのかもしれませんけどね。
性格の変化についてはよくわかりませんが、加齢は無関係でもなかろうと思っています。
自分の人生の中に「なんだかんだいいながら、結果論的によかったな」みたいなものが蓄積されていくのですよ。
進行中には、善し悪しを意識すらしなかった巡り合わせを、あとになって「結局、アレでよかったんだ」みたいなことが増えてくると「運」とか「縁」みたいなものを意識せざるを得ませんよね。
かつて持っていた「運なんか関係ないよ。実力だよ、実力」という考え方も、正なのではありますが、齢を経るに連れ、どうしても自分ではどうしようもない要因の影響が目につくようになってくるのですよね。
運とは、準備と機会のマッチングシステム
「あれ? こんなこと、前にも書いたことがあるぞ」と思いつき、過去記事を検索してみたら『「自分は運がいい」と思っておけば、だいたいオッケーな理由』なんて記事を投稿していました。
ほぼ1年前、まだ無職になっていなかった頃の記事ですね。
1年に1度くらいは「自分は運がいいな」と考えるような出来事が巡ってくるのかもしれません。
僕が今、そんなことを思っているのは、不動産の売却が上手くいったからなのですよ。
売出しを計画し始めたときは、すでに新型コロナウイルスが問題になり始めていましたが、まさか何ヶ月も社会が活動を止めることになるなんて思っていなかったし、世界株式が35%も下落するなんて思ってもいませんでした。
緊急事態宣言が解除されて、内覧希望者が戻ってはきましたが「3ヶ月くらい粘って客がつかなかったら、売出し価格を見直さなきゃな」なんてことも考えていたのですよ。
以前投稿した「東京のマンションに買い手がつきました」でも書いたように、まさに僥倖だったと感じています。
僕は運がいいのです。
たまたま、
- 不動産購入を希望されている方がいて
- 僕が所有している物件を所望され
- 金額や間取り等の条件が合う
ことができたのですよ。
でも、この3要件だけでは、売買は成立しません。
僕の側が、
- 売却することを決め
- 先方の望む価格設定をし
- 情報を公開
していなければ、このよき「運」は発動しなかったのです。
いつ頃からか僕は「運」のことを「偶然の出来事」ではなく「準備と機会のマッチングシステムだなあ」と感じるようになっていたのです。
そう思うようになったがゆえに「運がいいですね」と言われることにも、「僕は運がいいです」と自分から口にすることも抵抗感がなくなったような気がします。
「運」という言葉から、善悪や毀誉の意味合いが消えて、フツーの営みを指す言葉だと思うようになったからなのですね。
ちなにこの考え方、誰かに聞いたのか? 何かで読んだのか? はたまた自分で着想したのかよくわからず「運+準備+機会」でググってみると、そこそこ似たようなことをおっしゃってる方がおられますね。
おそらくずっと昔から、いつもどこかで誰かが言ってるようなことなんでしょうね。
「自分は運がいい」は、自然な感想
謙遜などしていないのです。
また、謙遜するほどの成果を上げているわけでもないのです。
せいぜい自分の想定の中の「満足がいく」と「諦めがつく」の間くらいに収まってくれたかな? という程度の成果をもって、いったんバラして「ゼロに戻す」ことを選んでいます。
それゆえのセミリタイアであり、無職なのです。
だから「運がいい」という感想は、とても自然に自己検証を繰り返した結果なのですよ。
当然、要所々々でそれなりに頑張った決断はしているし、他人を喜ばす発想もしてきたはずだし、努力も学習も怠ってはいません。
でも職業人ならば、そんなの当たり前なんですよね。
それよりも「どんな人と、どこでどんな出会い方をするか」とか「どんなタイミングで、どんな出来事が起こるのか」などの、自分では絶対に管理不能なものが人生に及ばす影響って大きいのですよ。
こういう巡り合わせって、まったくの偶然ですよね。
でも、その時点で自分がどういう準備をしていたかで「巡り合わせ」の意味は変わってくるのですよ。
それが「運」だと思うのですよね。
「準備」に関しては、自分でどうにでもコントロールできますから、「運」の半分くらいは自分次第なんじゃないでしょうかね。
だから、前項で述べたように「運とは、準備と機会のマッチングシステム」だと感じているのです。
もちろん、よい機会が巡って来ずに「準備」だけしていて、それっきりになることもありますけどね。
体感的にはむしろ、準備が無駄になっちゃうことの方が多いような気もします。
そういう場合は、あきらめたり、別の「準備」をやり始めたりするしかないんですけどね…。
そんなことを考えていると「自分は運がいい」と言えることは、やはり「運が良かった」のだろうな、とグルっと回ってしまうのです。
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