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栄転とか左遷とか、そういう体験してみたかった

2020.07.21

こんにちは、萩ドットライフ()です。

加齢のせいなのかなんなのか謎なのですが、最近「体験していないこと」を強く意識するようになっているのですよ。たとえば、サラリーマンに付きものの栄転とか左遷みたいなやつ。僕は長らくフリーで働いていましたから、そういう感覚がないのです。

人事の話題。栄転とか左遷とか

多くの人が持っているのに、僕には備わっていない感覚があるのだろうと思います。

先日、テレビドラマ「半沢直樹」が始まりましたね。
2013年に放送されて、たいそう人気だったドラマの続編です。

僕はテレビを持っていないので、毎週楽しみに観るなんてことはしません。

2013年版も、ときおりネット上に違法アップロードされてるものに出会うことがあったら「観る回もあった」程度のものでした。

今回はTVerに上がってくるかな? と思っているのですが、今のところダイジェスト版しか公開されていませんね。
前回同様「機会があれば観る」ということになろうかと思っています。

もともと、企業ものの小説は好きだったのですよ。
「だった」というのは、老眼が進んで読書が苦痛になり、持ってる本はずべて処分してしまったし、導眠用のコンテンツはYouTube動画に変わってしまいましたからね。
(参考:断捨離を実行することにします

僕は30代半ばから、フリーランスのデザイナーという生き方を選んでしまったので、おそらくこれからも自分が体験しないであろう、サラリーマンの世界を感じてみたかったんでしょうね。

大学卒業後、社会人生活の最初の10年間は僕も会社の従業員(=サラリーマン)でした。
だから、なんとなく様子はわかってるつもりなのですが、ドラマや小説に出てくるような人事の話題、栄転とか左遷とか、そういうものに直接関わることなくドロップアウトしてしまいましたからね。

僕が新卒で雇われた小さな会社でも、人事関係の悲喜こもごもはありましたけれども、どういうわけか僕はそういうことを語り合うグループに加わらずにサラリーマン生活を終えたので、どこかしらで他人事だったのです。

以前投稿した『「行き当たりばったり」は、思考停止じゃない』という記事で書いたように、僕は「10年経ったら辞めます。自分の会社を作りますから」なんて、生意気なことを言いながら入社したので、ちょっぴり敬遠されていたのかもしれません。

それはそれで楽チンだったんですけどね。

だからといって、人事に関心がなかったわけではありません。
「誰々が、本社に呼び戻されるらしいよ」とか「営業を2つに分けるんだって、第二の部長は〇〇さん」みたいな話には、それなりに耳をそばだててましたから。

僕自身が、そういう話の登場人物になることなどなかったし、そういう話をしながら酒を飲んでるメンバーに加わることがなかったというだけなのです。

フリーランスには、栄転も左遷もありません

20数年にわたるフリーランス生活を送り、サラリーマン年齢に換算すれば「もう役職定年」「そろそろ定年退職&再雇用が視野に」という50代半ばを過ぎたいま、ときどき「オレも栄転とか左遷とか、そういうの体験してみたかったな」などと思ったりするのです。

「半沢直樹」のような企業ドラマが話題になってるというニュースによる影響もあるんでしょうね。

「栄転」はまだしも「左遷も体験してみたかった」などというと「実際にそういう目にあったヤツが、どんな気持ちになるのか、わかってるのか!」「想像力がない」などと叱られそうですけどね…。

まあ、そりゃそうですよね。
でも、わかってないからこそ「体験してみたかった」のですよ。

フリーランスに「左遷」はありません。
指定業者から外されるとか、仕事をくれるはずの人から声がかからなくなる、なんてことは頻繁におこりますが、自分でどうにでもできますし、どうにもならなきゃ「はい、さようなら」なのを分かった上でやってます。

当然「栄転」もありません。
「いい仕事にありつけた。ウレシイ」とか「この代理店、オレにおいしい仕事を優先的に回してくれてない?」みたいなのはありますけどね。

すべてが「似て非なる」感覚なんですよね。
当然サラリーマンの方は、フリーランスの身体感覚を持ってはいないはずなのです。

僕は、そのフリーランスも辞めて無職になっています。
おそらくもう、一度も栄転も左遷も体験しないまま人生を終わることになるのだろうと思っています。

サラリーマンを辞めたことによって、栄転や左遷を体験する機会を失ったけれども、フリーランスとしてサラリーマンとは異なる身体感覚を得られたように、無職になったことで新しい体験と出会うことになるのでしょうけどね。

「体験していないこと」に意識を向けよう

本当は、なんでもかんでも体験できたほうがいいのですよ。
体験しなきゃ思いつかないことや、理解できないことっていっぱいありますからね。

だからといって「大した体験もしてないクセに、生意気なこと言ってるんじゃないよ」などと他人の言説を頭ごなしにクサすのも、ちょっと違うと思うんですけどね。

体験していないことや、ちょっとカジってみただけの体験を想像力で膨らませてみることが必要だったり、楽しかったりする場面もありますからね。

「これは自分が体験していないことだな」という感覚を、しっかりと持てるようになりたいのですよ。

たとえば僕は、ずっとデザイナーでメシを食ってきましたが、その間「自分が作ってるこの印刷物やWebサイト、視覚障害者には伝わらないんだよな」なんてこと、一度も考えたことはありませんでした。

まあWebに関しては、コーディング時に読み上げソフトのことを意識して、見出しはhタグでくくるとか、画像ファイルにはaltというテキスト文を付加することで、対応してましたけどね。

う〜ん…「一度も」というと語弊がありますかね。「ほとんど意識していない」あたりが正確な表現でしょうね。

その代わり「この空間はどんな役割を持つのか」「なぜ情報をこういう配置にするのか」「ユーザーの視線はどう動いて、どういうアクションをするのか」みたいなことは、デザインを生業としていない人なら絶対に思いつかないようなところまで思考が及んでいたという自負はあります。

それでメシを食っていたのですから、当然ですけどね。

人は「体験したこと」は強く意識しますが、「体験していないこと」は認識すらできてなかったりするんですよね。

でも、以前投稿した「他人の趣味と向き合う ― 萩市の古民家を買うことにしました」という記事でも触れたように、なんとなくではありますが無職になってから、自分が体験していないことに出会ったときの感じ方が少し変わってきたような気がするのですよ。

体験するということは、自分の中に身体感覚を作るということだろうと思うのです。

ドラマや小説、他人からの聞きかじりで組み立てた言葉や感覚とはひと味違ったものが、身体感覚を持っていることによって紡ぎ出せるような気がするのです。

僕は栄転も左遷も体験したことがありません。たぶん、これからも体験することはありません。
でもこの「体験しなかった」を少し大切に思いながら、この後の人生を歩んでいこうと思うのです。

それが「体験したこと」をさらに大切なものに磨き上げてくれるような気がするからなのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。