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時が経つと、いまの自分ではなくなってしまうから

2021.01.27

こんにちは、萩ドットライフ()です。

過去に自分がしてきた判断の「正しさ」について考えることが増えてきています。たぶんオッサンになったからです。自身に批判的な目を向けることになったとしても、「正しさ」をアップデートしつつ、人生の理念を再構築するフェーズだと思うのです。

正しい判断って?

50代後半って「これからの人生」が減っていくことを感じるし、「これまでの人生」を思い出すことが増えていきます。

10代だろうが70代だろうが、残りの人生が減り過ぎた人生が増えていくのは当たり前のことなのですが、バランスっていうか心の情景の問題です。
高校時代に「日ごとに残りの人生が減っていってるんだなあ」なんて考えやしませんもんね。

まだ「いま新しいことを始めても、まだ30年くらい楽しめる可能性あるんだよ」とも思えているし、「もう折返し地点もだいぶ過ぎてる…、いろんなことがあったなあ」と過去を振り返ることも多いのです。

これまでの人生で、何度も自分なりの判断をしてきました。

誰と仲良くなる? 部活は何を選ぶ? 高校・大学はどこを志望してどこを受ける? 誰と恋愛する? 結婚はどうする? どんな会社に入る? フリーになる? この仕事請ける? 東京に住み続ける? セミリタイアする? 細かいものも加えていくと、とても数え切れるもんじゃありませんよね。

「これまでの判断、これで良かったんだよな? 正しかったよな?」なんて考えることもよくあります。
いまの自分がこうなっているのって、そういう判断の積み重ねの結果なので「正しかった?」なんて考えても仕方ないんですけどね…。

他人のアドバイスをどう捉えるか

そもそも「正しさ」なんて、判断して行動を選んだそのときと、それから数年経って振り返って考えている今とでは、異なって当たり前なんですよね。
たぶん「そのときの自分が正しいと思っていたのなら、それでいいじゃん」が正解なのでしょうが、そうもいかないのが「思い出に浸る」って行為の特徴ですよね。

仕方ないのです。

自分にとっては正しく思えていたことが、他人には「バカ、やめとけ」って行為だったりすることもありますよね。
そして、時が経つことによって、自分もその「判断したときの自分」とは別の自分になってたりもするのですよ。

とくに最近はSNS等で、他人の行動が可視化されています。
見も知らずの他人の行動を目の当たりにして「おいおい、やめとけよ」って思ったりもしますよね。

その人は、かつての自分と同じ判断をしてたりね。

いま目の前に30歳の僕が現れて「会社やめてフリーになるよ」って言ったら、たぶん僕は「食えるわけないだろ、やめとけ」っていうように思うんですよね。
本当に「お前じゃ力不足だ」と知ってるからでもあり、「やるやつは、だれから『やめとけ』って言われてもやっちゃうんだよ」って思っているかれでもあります。
(参考:フリーランスになりたいと言ってくる人には「やめとけ」と答えます

正直なところ、20年30年前の自分にも、的確なアドバイスなんてできる自信ありません。
たぶんピントの外れた、ただ時間だけ費やして、心をかき乱すだけの、クソなアドバイスをしてしまうんだろうな、と思っています。

ちょっとした転機に、他人に相談したり、したり顔でアドバイスしにやってきた方のお話を拝聴したこともありますが、まあ玉石混交で、どうしても自分にとって都合のいいアドバイスのみをピックアップしがちですよね。

過去に「アドバイスって役に立ちませんよね」なんて記事を投稿したこともありますが、「役に立たない」は、ちょっと言い過ぎかな? とも思っています。

自分を疑うことも大切なんだけどね

基本的に僕は「他人のアドバイスを聞く暇があったり、迷ったり悩んだりしている時間があるんなら、さっさとやっちゃえ」派ではあったのですよ。
これからもそうだとは限りませんけどね。

ただ、冒頭に書いたように「これまでの人生」を思い出していることが増えたことは確かなのです。

そうすると「もしかして今、自分を疑ってみるフェーズなのかな?」なんてことも考えるのですよ。
そのたびに「いまが快適なんだから、そこそこ正しかったんじゃない?」というところに着地するに決まってるんですけどね。

でも「生き様」としてはどうだったのかな? というところを考え始めると、なかなか苦しいのですよ。

「できなかったこと」をピックアップし続けて、どんよりとした気分になるんですよね。

会社を作ったけれども、従業員を雇わずに組織づくりをできなかったこととか、家族らしきものを形成していた時期もあったけれども、上手に保持できなかったこととか…。
(参考:人を雇わない会社を経営してきた理由

誰かに良い影響をあたえられたのかな? とか、取り組んだり関わった人や事に対して誠実だったのかな? とか、そういった生き方の姿勢に関して考え始めると「う〜ん、ぜんぜんダメダメだったな…」みたいなことになっちゃうんですよね。

たぶん、目の前にある問題の解決やら、快楽の追求やらに対する手法としての「正しさ」はそこそこあったのでしょうが、社会的意義とか理念みたいなものに対する踏み込みの浅い人生だったように感じるのです。

人生の理念をアップデートしよう

都合よく解釈すれば、手法とかやり口としての正しさはひとまず置いといて、人生の意義とか理念のようなものを再構築するための手段として、セミリタイア人になる道を選んだのかなあ、という気もしています。

余暇時間を増やし、そういったことを考える余裕を自分の中に作り出そうとしているような気がしているのです。

これまでの人生を検証してみて、過去の自分の言動や行動を少し批判的な目を持って見つめ直すことも「これからの人生」を迎える上で決して無駄ではないように感じています。

これまで自分が信じてきた「正しさ」のアップデート作業みたいなもんですよね。

おそらく10年前の自分がこんな感覚になるチャンスがあったかというと、はなはだ疑問です。
では10年後、同級生たちがみんな定年退職してしまったくらいの年齢ですね。これもなかなか想像しにくいんですよね、未来のことなのでなんとも言えませんけどね。

たぶん「いま自分はこういうことがしたいんだ」と考えたときに考えて動かなきゃダメなんですよね。

おそらく10年後の僕は今の僕じゃありませんから「セミリタイアして、余暇を増やして、人生の理念を再構築するときだよ」なんてアドバイスはしてくれないように思うのです。

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