follow hagi.life

毎朝のブログは、お風呂の鼻歌のようなもの

2020.06.13

こんにちは、萩ドットライフ()です。

創作をすると生活が豊かになると思うし、人々がやさしくなると思うのですよ。「クリエーター」という呼称が職業人のことではなく、普通の生活を営む人を指すように変わっていますよね。創作とは、日常のちょっとした工夫のことだったりするのです。

創作活動が日課だった

その昔「大手広告代理店○○社では『クリエーター』と呼び、△△社では『クリエイター』と呼ぶよ。訂正されたりもするよ」みたいな話を聞いたことがあります。

どっちがどっちだか忘れましたが「へえ、拘るものなんだなあ」とだけ感じて、違う話に移ったように記憶しています。

憶えているのは、そのときに「自分たちのことを『クリエーター』と称することに対する、ちょっとこそばゆい感じが、いつの間にか失われてるな」と感じたからなのですよ。

僕はずっとデザイナーを生業にしてきましたので「デザイナー」と呼ばれることには、何の抵抗もなかったのですが「クリエーター」呼ばれることに、うっすらとした抵抗感があったのです。わりと長い期間。

そういう意味では「Webデザイナー」という職業名を名乗ることにも、しばらく抗っていましたね。なんなんでしょうね、そういうの。

そうそう。ブログの文章を「記事」と称することにも、抵抗がありました。

なんだかニュースとか、論説みたいな、プロの物書きの手のよる「作」みたいなイメージがあるじゃないですか…。
「オレのブログ文なんて、そんな大したもんじゃないでしょ…。こっぱずかしいな」みたいな感覚です。

職業名に対する抵抗感も、そのあたりにあるんでしょうね。

「ワタシなんて、そんな大それたもんじゃありませんよ」だったり「最近出てきたようなチンケなもんと一緒にされちゃ困るんだよ」だったり、感情としては、かなり複雑な感じがしますね。

以前『「作る人」で居続けよう』という記事を投稿したことがあります。

前述のように、僕はずっとデザイナーでメシを食ってきましたから、何かをこさえることが日課だったのですよ。

とくに仕事がない日でも、朝起きたらとりあえずPCをスリープから復帰させて、メールやスケジュール、ニュースなどをチェックしながら、何かしらの「やること」をイメージするのがルーティーンだったのです。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと

「デザインの仕事」のない日でも、ずっと何らかの創作活動はしてたってことなのですよね。

毎朝のブログは、お風呂の鼻歌のようなもの

創作活動って、職業とは一線を画した「暮らし方」みないなものかな? と思っています。
もちろん職業に影響を与えることは多々あるんですけどね。だからといって、何の役に立たなくても構わないのです。

なんでもいいんだけど、ちょっとだけ「楽しくしてみよう」「カッコよく仕上げてみよう」「分かりやすく伝えよう」を考えながら工夫し続ける態度のことだと思うのです。

たとえば「コーヒーを丁寧に淹れよう」とか「風呂場で唱う鼻歌の選択」とか「朝ランのコースを変える/変えない」とか、そういうのぜんぶ「創作」なのだと思っているのです。

なんで、こういうことを書いているのかと言うと、昨日「1日おき更新でいいかも? 毎日更新しんどい」という記事を投稿したのですが、なんだかおさまりきれずに、ずっと考えているからなのです。

「そっか。毎朝のブログは、お風呂の鼻歌と一緒なのかもな」なんてことを考えているのです。

ただの習慣のはずが、ときおり「義務」とか「ルール」みたいな感じになっちゃってるし、なんかしらの「意味」を求めたりすることもありますけどね…。
(参考:アウトプットする習慣を持つことの意味

僕がずっとデザイナーを生業にしてきたことと無縁ではないのでしょうが「なにかをこさえる」って、自分の暮らしを豊かにするために、とても重要なことなのですよ。

ホントは「みんなにとって」とか「社会の」「コミュニティの」とか言ってみたいのですが、そこまで深く考えたことがないので、今のところ「僕にとって」という話で進めていきますね。

僕は毎日なにかしらの創作時間を設けること、創作を意識することが楽しいのです。
だから、なんだかんだ言いながら、こうして毎日ブログを書き続けたり、床にモップをかけながら鼻歌を唱ったりしているのです。

創作をすると、生活が豊かになると思うのです

創作をすること、続けることって、良いことだなあ、暮らしが豊かになるなあ、なんてことを感じ始めたのっておそらく40代になってくらいだったでしょうかね?

そういうふうに考えるようになったら、冒頭で述べたような「クリエーター」って呼称に対する、こそばゆさとか、はにかみが消えていったような気がします。

時代が進むにつれ、ブログだ、noteだ、YouTubeだ、Voicyだ、なんだかんだとプラットフォームができ上がってきて、何気なくこさえたものを他人と共有できるし、偶然の出会いを期待できるようになりましたね。

もうすでに「創作」と「業」は切り離されていて、誰もが普通に「クリエーター」なんですよね。
職業人のことだけを指してる言葉ではないのですよ。生活の中での営みのことを指す言葉になっているのです。

むしろ「自分はクリエーターだ」と何の衒いもなく感じられたほうが、日常のちょっとした工夫や視点の作り直しを「これは創作活動だ」と認識しやすいし、「こうしたら生活が豊かになった」と感じやすいと思うのです。

現実的には「私にはとても、そんなことできません」とか「下手の横好きでやってますが、他人様にお見せするほどでは」なんて人、まだまだ多いですけどね。

子供のころ、チラシの裏にクレヨンで書いた絵を部屋の壁に張ったみたいに、続けていれば何かのはずみで「他人の目につくところに置いてみようか」というときはやってくるものだと思います。

自分のこさえたものが他人の目にふれて、称賛されることはなかなかありません。
それが収入源となり生活の糧になることなんて、もっと困難です。

でも、創作を始めることによって、他人がこさえたものを見て「クソつまんない」「基本ができてない」「レベル低い」などというクサすための言葉を探し始める自分は、直ちにいなくなります。

どこかしらで、自分と同じように創作する人を「応援したい」「尊重したい」という気持ちが芽生えるのですよね。たぶん自分もそうされたいからです。

概ね、みんなが創作をはじめたり、続けたりする世界は、やさしい世界だと思っています。
(それが生業となると、辛辣な言葉が飛び交う場面も多々ありますけどね…)

繰り返しますが「みんな」と言ってしまうと構えが大きくなってしまうので、当面「僕は」そういう生活を続けてみようと思っています。

そのうち「作りたいもの」「工夫したいもの」「観察したいもの」などが増えてくれば、相対的にブログの投稿数は減ってくるのかもしれません。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。