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できるやつだと思わせなくてもいい生活。心地いい

2021.02.26

こんにちは、萩ドットライフ()です。

感じのいい人って、自分を大きく見せようとか、できるやつだと思わせようとしない、そして常に上機嫌な人のことだと思っています。僕もそう振る舞おうとしてはいたのですが、職業人のうちは困難ですよね。でも無職になるとストンと憑き物が落ちますよ。

「人のふり見て」がなくなって数ヶ月

無職になって山口県萩市に移住して、一番変わったことって、他人のことを気にしなくなったことですよね。

  • 仕事のやりをすることがなくなって
  • 極めて人口密度の低い場所で暮らしはじめて
  • コロナ禍なので飲み会も開催されず

なので、社会性を失ってるのですよ。

かつての仕事仲間とのメールやメッセージのやりとりとか、出資先の経営者から電話がかかってきて壁打ちの壁係をすることくらいはあります。
SNS上でいろんな人のいろんな発言を目にしたり、いろいろと思うことがあったりもしますけどね。

けれども、思考の中に他人を登場させることが、職業人時代よりもはるかに少なくなっています。

他人と対面でちゃんとしたコミュニケーションを取ることがなくなってることの影響って大ですよね。

良くも悪くも、です。

「あの野郎、こんなこと抜かしやがった。どうにかして仕返ししないとな」とか「あの人の機嫌を損ねるとマズいんだよなあ、どうにかして挽回しないとな」なんてことを考えなくなったことについては、わりと清々しています。

その代わり「この人、感じいいなあ。この人とのコミュニケーションを増やすように仕事の進め方考えよう」とか「この人の知恵、もっと見たいなあ。盛り上げて乗らせよう」みたいなこともなくなっているのです。

「感じいいなあ」の人とあまり出会えていないことに対しては、少々寂しさを感じています。

でも、世間から距離をとるってそういうことなんですよね。
「好きなときに、好きなことをやる」の代償なのです。

そして、いつの間にか「人のふり見て、我がふり直す」ことがなくなってるんですよね。

「この人、感じいいな」の正体

我がふり直すの「直す」には「こんな態度取りたくないな、オレもこんなふうに見られてないよな」という、ネガティブの芽を摘む意味合いと同時に、「この人感じいいな。オレもこんなふうに振る舞おう」という、ポジティブ方向の「直し」も含まれていると思うのですよ。

というか、むしろそちら側に意識を置いていたほうが気持ちよく「直そう」という気になれますよね。

以前投稿した「年齢なんて気にしない、ですか?」でも書いたように、若かりし頃にミーティングで会ったときとか、打ち合わせの帰り際などで、20歳も30歳も年下の人にも深々と頭を下げるベテランの方がいて「カッコいいな」と思って以来ずっと真似しています。

ただ、会ったとき別れるときに深々と頭を下げるだけじゃなくて、普段から「この人、感じいいな」と思わせてくれるポイントがいっぱいある人だったのですよ。

もちろん長らく職業人として生きてきましたので、多くの「感じいい」人と出会ってきています。

あくまでも仕事上の印象から受けた「感じいい」です、プライベートもそうだとは限りません。

ここにきて暇になったせいか、どういう人について「感じいい」と感じていたのかが気になり始めてるのですよ。
職業人時代に考えたこと、あまりなかったんじゃないかなあ? なんとなくの印象だけだったんですよね。

別に仕事をフォローしてもらったとか、美味しいご飯をおごってもらったとか、鮮やかな仕事っぷりを見せつけられたわけでもないのです。
そういうときには場面々々で「ありがとう」とか「うぉっ、スゲっ」みたいなそのとき用の感情を持ちますからね。

わりといつも上機嫌で、肩肘張らずに力が抜けてる感じの人が多かったかな。

うん。肩肘張ってないのはいいですよね。
上機嫌なのもいい。

こないだ「機嫌よさそうにしとけば、そこそこ楽しく暮らせるんじゃない?」という記事を投稿しているのですが、なんとなく発想の根っこは一緒っぽいですね。

僕のは「肩肘張らないふう」だった

その辺に関しては、僕も職業人時代に「いつも上機嫌でいよう」とか「力の抜けた感じ人と接しよう」みたいなことは考えていたのですよ。
そこそこ「我がふり直せ」てはいたんですよね。

ちゃんと「機嫌よくて実寸大で生きてる人は、感じいいぞ。自分もそうあろう」って認識してたわけじゃないんですけどね。
なんとなくそうしてたほうが、人が寄ってくる感じがあって、自然とそんなふうに振る舞ってたんですよね。

ただ「力が抜けた感じ」「自分を大きく見せようとしない」「肩肘張らない」、知ったかぶりもしないし、馬鹿なふりして逃げようともしない風(ふう)だったよな、と振り返っています。

職業人時代で、しかもフリーで仕事をしていると、どうしても仕事を奪い合う側面って付き物なのです。
なので、どこかしらで自分を「できるやつ」ってアピールしなきゃいけないんですよね。

少なからず、そういう意識をもっていました。
もちろん前述の「上機嫌でいよう」とか「肩肘張らずに」みたいなこととの折り合いを付けつつですけどね。

そして、それができているかどうかを常に心配していました。

そのおかげで成長できた部分もたくさんあったと思います。

時間ができるたびに学習やインプットに励んだのって、まさに「できるやつ」に見られたいからですもんね。
(参考:フリーランスの僕が暇な時にやったこと

ただ、あの頃を振り返ってみると、完全に自分を肯定しきれない辛さを孕(はら)んでたなあ、と思っています。

実寸大に戻ったら、伸びしろが見えてくる

無職になって他人とあまり交流しない生活を始めると、この辺りが相当補正されて、憑き物が落ちたような気持ちよさを味わえますよ。

セミリタイア初期の今だけのことかもしれませんけけれど。

ぜんぜん「できるやつ」じゃないのに、「できるやつ」だと思わせようとしなくていいのです。
そもそも、そんなアピールをする舞台がないのですから。

できない自分をそのまま認めて、自然に好きでいればそれでいいのです。

たぶん、職業人時代に感じていた「できないやつ」に対するイラつきもなくなっていて、自然に好きでいられるようになってるはずです。
まだ実証できてませんけどね。

ずっと自分を大きく、できるやつだと見せようとしていた部分が萎(しぼ)んで、実寸大に戻ったような気がしています。

「できない」部分をそのまま認められるようになると、その発見が楽しかったり嬉しかったりするんですよね。
やらない理由を探し出して、自分に言い聞かせる必要もなくなりますしね。

これからの人生は、この「できない」部分が伸びしろだと思うんですよね。

「できるやつ」に見せたいから、できない部分をできるようにしようってわけじゃなくて、素直に「できない」と認めることが「やりたいこと」の糸口になるような感覚を持ち始めているのです。

実は、自分の「できない」をさっさと認めてしまう実寸大の生き方が、もっとも効率的に成長をもたらすコツだったのかなあ、などと30年を超える職業人生を振り返って反省しています。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。