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頑張った自分へのご褒美を得たのち…

2020.01.18

こんにちは、萩ドットライフ()です。

僕は現在、無職になって長期休暇を取っている最中なのですが、「これって頑張った自分へのご褒美のつもりだったんだろうな」と今になって思います。そう感じることで退屈が苦痛だったり、暇に飽かせて迷い続けている現状と折り合いがつけられるのです。

自分へのご褒美…。平凡なひと言ですけどね

考えてみると、これって「自分へのご褒美」みたいなものだったのだなあ、と思うのですよ。

このブログ内で何度も触れていることなのですが、僕はいま無職になって長期休暇中なのです。
完全に職業人ではなくなったわけではなく、セミリタイア中です。なので、しばらく休んだらユルめの仕事を模索します。

このブログを開設した直後「自己完結型(スタンドアローン)の仕事を模索しよう」という記事を投稿しています。
すでにセミリタイア生活を始めようと思いついて「もう新規案件は請けませんよ」と周囲に宣言していたころですね。

完全リモートワーク化はできていましたが、まだ普通に仕事に取り組んでいたころです。

この頃から少しずつ「職業人生を延ばすために、ユルめの仕事を再構築しないとな」みたいなことを考えていたのですね。
いったん区切りをつけるために「まずは1年程度はゆっくり休もう」というスケジュールを組み込んだのが、自分へのご褒美みたいなものなのです。

「みたいなもの」というのは、そのとき自分でそう認識して準備していたからではなくて、実際に長期休暇に入って3ヶ月くらい経過した今、「そういえば、そういうことだったのかな」と感じる程度だからなのです。

「自分へのご褒美」って言い方、いつ頃から使い始めたんでしたっけね?

少なくとも、僕が20代くらいの頃には使ってなかったように思います。
この言葉を見聞きするようになってしばらくは「なんだか、気持ち悪いもの言いだなあ」などと感じていた記憶もありますが、いまは「まあ、いいんじゃない」と思っていますので、そこそこ浸透してきたってことなのでしょうね。

なので「そもそも『ご褒美』というものは、自分に贈るものではなく…」みたいな話をするつもりはありません。
僕自身、高額な買い物をしたり、非日常体験をするときに自分を正当化するための、平凡なひと言としてフツーに使っちゃってますからね。

振り返ると過去にも何度か「自分へのご褒美」を提供しているのですよ。

フリーランスになって最初のころはまったく食えませんでした。
だから、なんとか生活ができる程度の収入を得られるようになり、さらにそれがどんどん増えていくことが「オレって頑張ったなあ」と認識できる一番の要因だった時期が長らく続いていました。

「なんだ、金かよ」ではありますが、食えるか食えないかの壁を突破するのは金しかないのですよ。

そういうときの「自分へのご褒美」って、どうしても物品になりがちですよね。
腕時計だったり、靴だったり、衣類だったり…。

さすがに車に手を出すことに関しては、自分なりに危険を感じましたので「自動車免許を更新しない」という方法で食い止めました…。
(参考:50代にして自動車免許を取るつもりです

物品のご褒美、あまり効かないのです

そのうち自分で気付くことになるのですが、僕はあまり物品によってやる気を鼓舞されるタイプではないようなのです。

ネットを見ながら「あれ欲しい、これカッコいい」などと思っているときが一番幸せで、実際に手に入れてもさほど充実感は得られないのですよ。
それよりも、いろいろと物色するついでにモノに対する歴史や、製法、種類などなどの知識が増えることのほうが楽しかったりするのです。

お金の使い甲斐がないのです。

なので自分のスケジュールの中に、物品ではない「自分へのご褒美」として、長期休暇を設定を試みたように思うのです。
前述の通り「そういえば、そういうことなのかな」程度の認識ではありますが、そんな気がするのです。

「お金の要らないご褒美が見つかってヨカッタね」ではありません。
収入を絶ちますので、結構高額なご褒美です。

その結果、先日投稿した「ちょっと、休み疲れしているっぽい」でも書いたように「暇で退屈なのも苦痛だな」とも「まだ休み慣れしてないな」とも思ったりもしています。

それでも「ついこないだまでの日常からちょっと離れた場所に来ちゃったな」という認識はあります。
これはこれで、気分がいいのです。

たしかに長期休暇は、自分へのご褒美になっているのです。

迷いながら暮らしているのです

冒頭で、自分へのご褒美「みたいなもの」と書いたように、この長期休暇にはご褒美ではない要素も含まれているのですよ。

「次に始めるユルい仕事の準備」です。

現在手元にある、不動産と金融資産の運用、そしてあと10年もしないうちに受給が可能になる公的年金を組み合わせれば、労働しなくとも「豊かではないけれども死にはしない」程度の生活はできそうなのです。

だから「セミリタイアの定義。仕事は娯楽(=生産的な趣味)」などというヌルいことを考えながら、この先の準備をしている最中なのですが、こうして何回も似たようなことをブログ記事にしているように、こんなことばかり考えているのです。

せっかく「頑張った自分へのご褒美(=長期休暇)」を得たにも関わらず、ずっと迷いながら暮らしているのです。

「こうして、ずっと迷いながら暮らすのはフリーランスになったとき以来だな」などと感慨深く思っています。

暇で退屈なもんだから、ずっと迷い続けるしかやることがないのですよ。
フリーになったばかりのときも仕事がなくて暇でしたもん。
(参考:フリーランスになったころの失敗を記して、平成時代を後にしよう

「迷う」とは、選択肢をいっぱい目の前に広げて「さあ、どれを手に取ろうか」と決めかねている状態のことです。

以前「決断が先、迷うのはあと」という記事を投稿しているように、「わかっちゃいる」のですよ。

わかっちゃいるけれども、決断を留保してグズグズしているのです。

もっと言うと、決断もできているのです。
A・B・Cの選択肢があったとして、すでに「ヨシ、まずはAから手を付けよう」という結論には至っています。

それが、年明け早々に投稿した『生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう 』なのです。

でもBとCの可能性を失うことに不安だったり、未練だったりを残しているのです。

それは例えば「東京に拠点を失いたくないな」だったり「そのうちデザイナー仕事を受注したくなるかもな」みたいなことだったりします。
ホントはもっといっぱい浮かんでますが、上手く書ききれません。

20数年前フリーになって運よく食えるようになったときにも、3・4年をかけてたくさんの「迷い」と折り合いをつけてきました。
「こういうのって、スパっと割り切れるもんじゃないんだよね」というのは分かってるはずなのですよ。

そして同時に「あと先考えずにやっちまえ」しか答えはないことも承知しているのです。

もうすでに1回、あとさき考えずに無職になってみているのです。
そうしたら、もうひとつ深いレイヤーで迷うハメに陥っているのです。

長い人生のうちで、こんなにも迷い続ける時期を得るなんてなかなかあるもんじゃないから、これこそが「頑張った自分へのご褒美」なのかなあ、とも思っています。

過去には「[フリーランスの老後]頑張って良かった。老い方を選ぶことができてる」なんて記事も投稿してますしね。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。