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いちばん大切なことと向き合うとき

2019.11.28

こんにちは、萩ドットライフ()です。

いちばん大切なことと向き合っているとき「一見とても合理的とは思えないような行為におよぶことってあるよな」などと思っています。精神主義・根性論と嫌われがちな動作の中にも「いちばん大切なこと」の確認作業が含まれていたりするのです。

ときどき「根性」とか「精神論」について考えることがあります。

今、バレーボールの全日本インカレが開催されていて、学連のtwitterで結果をチェックしているから、ほんのちょっとだけ30年以上前のことを思い出してるのかもしれません。

母チームについても「監督・コーチは知ってるけど、選手って誰がいるの?」という程度の情報しかありませんけどね。
毎年、新入部員のプロフィールが送られてきたり、リーグ戦(春・秋)、インカレ(東日本・全日本)の時期には事前報告・結果報告が送られてくるし、一応目は通してるのですがすぐに忘れてしまうのですよ。

そうそう。この文章をお読みの方で「知り合いにインカレに出たバレーボーラーいるよ」って方、おられませんか? 多いはずなのですよ。

なぜなら、僕が現役でプレーしていた頃、バレーボールのインカレはオープン参加だったのです。
予選がなかったのですよ。申し込めば出られる大会だったのです。
だから、本戦(トーナメント)が始まる前に、いくつもの会場に別れて、予選リーグ(グループ戦)をやっていました。

でも、最近はいきなりトーナメント表が公開されるので、制度が変わっちゃたみたいですね…。

母校が準決勝くらいに残れば観戦に行こうかとも思うのですが、残念ながらこの週末から、僕は萩の作業場に移動してしまうので、SNSで結果をチェックしつつ応援することとしましょう。

暇だから精神主義とか根性論について考えてみるか

さて、このブログのいろんなところで触れているように、僕はいま無職です。
(参考:「無職」って言っちゃうとウソになる。でも言いたいのです

無職だから暇なのですよ。
当然、何かを「根性で乗り切りました」という状態ともっとも遠い生活をしています。

毎日ダラダラしてるし「ヨシ、この機会にはじめよう」と思ったこともあまり上手く進んでいません。

そんな僕でもかつては、競技者だったので精神主義が幅を利かせてるっぽい現場にいました。

過去記事を検索してみたら、以前に「甲子園やってるから、根性について考えてみましょうかね」という記事を投稿していましたね。
その中でも触れているのですが、実際には30年以上前の当時からさほど「精神主義」「根性論」にまみれてるわけではなかったのですよ。

当時から「過去のもの。けれども未だに残っていることは否定できない」くらいの感じだったんじゃないでしょうかね。

そりゃみんな勝ちたいし、成績を上げたいのですから、自分の限界を超えることに挑み続けますし、延々とワンプレーを詰めたりもします。
自分やチームに課題設定して、それをクリアしようとし続けます。

それをいちいち言語化するのがメンドくさいから「根性で乗り切りました、はい」くらいの感じになるんじゃないでしょうかね。
外部から見れば「精神主義が幅を利かせてるっぽい」感じではあったでしょうね。

精神論・根性の役割

最近よく、ブラック企業とかでのパワハラや残業体質が問題になりますが、これは競技者が練習を詰めてるのとは、質が違うものなんじゃないでしょうかね?

僕はフリーランスのデザイナーだったので、長年セルフブラック状態が続いていましたが、これは競技者が「質を求めるがゆえに、練習が長時間化する」状態に似ているものだったと思います。
(参考:「セルフブラック」の功罪

自分に未熟な部分を感じていると、量をこなさないと質が担保されないのですよ。

ある分野の質を向上させると、それが呼び水となって別の分野の質に課題があることが見つかってしまうという、堂々巡りに陥ってしまうのです。

よっぽどの大天才ならば別なのでしょうが、さして才能に恵まれない競技者の場合、ひとつひとつの動作に意味を持たせた質の高い練習をしようとすると、結果的に量が増えるものなのです。
最初から「量」を求めるよりも、「質」を求めるほうがキツい練習になってしまうのですよ。

競技者も職業人も同じですよね。

だから僕は、他人に対して「根性だ」「やる気だ」「モチベーションだ」などと言いながら無理を強いることには嫌悪感を感じますが、自分が望んで無理をしている姿に対しては「まあ、そんなことが必要な時期ってあるよね」と、割と肯定的です。

少々角度の違う話になりますが、何かに挑んで成し遂げた、もしくは失敗した話を誰かと語り合うとき、その話の中に精神論的な要素を入れ込むことで、より共感は強まるような気がしています。

「悔しくてトイレの中でひとり泣いた」とか「お金なくて白ごはんに塩をかけて食ってた」みたいな話ですね。
「もっと合理的に振る舞うべき」「根性論は徹底的に排すべき」ばかりでは、ちょっと興醒めしてしまうのです。

どこかしらに「できることはすべてやった」だけでは足りないものって残るのですよね。
そこに「あとひとつ」「もういっちょ」と積み上げていく、精度を上げていく作業。たぶん他人から見ると「精神論だ」「根性だ」と感じる部分なのでしょうね。

わりとそういう話、好きなのです。

今、いちばん大切なこと

以前「フリーランスの僕が暇な時にやったこと」という記事を投稿したことがあります。

  • 数時間の暇ができたら「役に立ちそうなこと」やる
  • 数日〜2週間程度の暇ができたら「面白そうなこと」やる

などと書いていますが、その「やったこと」が直接仕事で役立って収入を増やしてくれたかというと、そうでもないのですよ。

正直に言えば、フリーランスって「何もしていない暇な時間」が怖いので、その恐れから逃れるための行動であったことは否めませんし、「常に新しいものを取り入れて自分を変え続けるべき。役に立つかどうかの判断は後でいい」という、前向きな気持ちも持っていました。

「まあ、無駄なことを繰り返してたな」といえばそうですし、「この世界で生きていくための姿勢の現れだ」と言えるような行為だったとも思っています。

振り返ってみれば「僕の人生の中で、今いちばん大切なこと」を確認するための作業だったのだと思うのですよ。
いわゆる「精神主義」とか「根性論」などと言われるものの中には、これが含まれている気がするのです。

今、僕が「人生でいちばん大切なこと」は、ゆっくりと休養を取ることだと思っています。
だから毎日、暇にしているしダラダラと過ごしています。

「無駄な時間か?」といえば、まったくその通りだし、「意味があるのか?」といっても、これまたその通りなのです。

かつてセルフブラック状態だった頃と根っこは同じなのです。

生まれた街「萩」の小さなひとつに還ろう。